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2013年5月16日 (木)

父の背中 ‐亡き父・晋太郎氏を偲ぶ安倍首相‐

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(写真は首相のfbページより)


昨日5月15日、安倍晋三首相は自身のfbページに以下のコメントを投稿した。


「今年も親父の命日の5月15日やってきました。
思えば、昨年の親父の命日からずっと走り続けていたような気がします。
今更ですが、親父が政治家として果たそうとしていたこと、そのための苦労がようやくわかってきたような思いです。

同時に今日は沖縄が本土復帰を果たした日でもあります。
沖縄の負担軽減と振興も私の使命であるということも噛み締めたいと思います。

今日は空から見守ってくれているであろう親父を思い出しながら、予算成立で一区切り」。


安倍首相の父、安倍晋太郎氏は岸信介元首相の娘婿であり、外務大臣、通産大臣(当時)、官房長官、自民党幹事長、総務会長、政調会長を歴任した、超大物政治家だった。
東大法学部卒、そしてその岳父・岸氏との関係という毛並みの良さから、政界の「プリンス」と呼ばれた人物だ。同氏は、高校から大学時代にかけて、僕が政治に興味を持ち始めた頃、まさに日本の政治の第一線にいた政治家だったので、とても印象に残っている。

「三角大福中(三木、田中、大平、福田、中曽根)」という、あくが強い実力者たちが統治した自民党の次の世代を担うニューリーダーとして、竹下登元首相、宮澤喜一元首相と共に「安竹宮」として首相の座を争った。

田中派内で必ずしも田中氏との折り合いが良くなく、散々「雑巾がけ」をさせられ、「政界のおしん」と呼ばれた苦労人・竹下氏。官僚出身者が多く、政策には強いが政局に弱い「公家集団」とも揶揄された宏池会にあって、その象徴とも言えるようにエリート意識が強く、東大卒以外の人間をバカにする、悪く言えば「陰気」な宮沢氏。その二人のライバルに比べ、晋太郎氏は人が善く、懐が深い政治家で、まさに「プリンス」だった。

その「安竹宮」が中曽根康弘首相の後継を争う、1987年の自民党総裁選で激突することとなり、10月20日に国会議員による本選挙が設定された。晋太郎氏と竹下氏は同期当選の親友であり、同氏には、自分こそ世代交代の先頭を走ってきたという自負心があった。そこで10月19日、同氏は竹下氏と8時間以上に及ぶサシの会談を行い、「安竹」の友情関係を頼りに、「先に譲ってほしい」と執拗に迫ったが、竹下氏はのらりくらりとして言質を与えなかった(日経新聞電子版参照)。結局、「禅譲」によって影響力を残したい中曽根氏の様々な「工作」等によって、後継総裁は「中曽根裁定」に委ねられ、竹下氏が総理総裁となった。「狡猾」な竹下氏に対して、「脇が甘い」晋太郎氏が敗れたと言えるだろう。

1988年、政官界を揺るがす大スキャンダル「リクルート事件 」が明るみに出(これには3氏とも関与)、1989年、晋太郎氏に癌の兆候が見られ、1991年に死去したことを考えれば、結果的には、同氏にとっては1987年が総理総裁となる最後のチャンスだった。

リクルート事件に関与し、かつ党内で全く人気のなかった宮澤氏が、1991年に首相になり得たことを考えれば、健康でありさえすれば、晋太郎氏が首相に就任した可能性は極めて高いと考えられる。1987年に竹下氏が同氏に譲ってくれてさえいれば…。「一寸先は闇」の政界でそのような期待をすることはナンセンスとはいえ、「安竹宮」の中では、晋太郎氏に最もシンパシーを感じていた若き日の僕には、それが残念でならなかった。

田中角栄首相の政務秘書を務めた故・早坂茂三氏は、「安竹の勝敗は、能力や資質の問題ではない。潜り抜けてきた修羅場の数が違ったのである」と、竹下氏が田中派の中で舐めた辛酸が、晋太郎氏との大きな差だったと述べている(同氏著「駕籠に乗る人担ぐ人」)。それは正しい指摘だと思う。しかし、個人的には、一番大きかったのは竹下氏には、彼を絶対に首相にしようという金丸信氏という寝業師の盟友がいたが、晋太郎氏の周りにはそれに比する人物がいなかったことだと考えている。加えて、上述のような晋太郎氏の人が善いゆえの脇の甘さ。

安倍首相が父を亡くしたのは30代後半。しかも当時首相は晋太郎氏の秘書官をしていたので、その父は人生の師であると同時に、政治家としての師でもあったはずだ。そのような存在を亡くされた首相の心は如何ばかりだっただろうか…。

私事ながら、僕も昨年40代で父を亡くした。父と僕とは全く違う仕事をしていたが、父が僕の人生において最も尊敬できる人間であったことは間違いない。1年が経とうとしている今でも、その痛手から立ち直れないでいる。安倍首相は、この世を生きる人間として、また、自身が歩んでいる道の大先輩であった人としての父を亡くしたわけだ。しかも僕よりも若くして。そのことを考えると、首相のこれまでの人生における困難の大きさを想像せずにはいられない。

2006年に最初に首相になった時の安倍氏は、記者からの質問に対してムキになって反論したりして、ご自身も振り返って反省しておられるように、肩に力が入っているように思えた。言わば、「孤独な安倍晋三」としてその職責を担っていたのではないか。

しかし、病気によって不本意にもわずか1年での退陣を余儀なくされ、様々な批判に晒された上での再登板。今回は、晋太郎氏の想いと共に、この国をより良い方向に導こうと真摯に職務を全うしているように思える。「親父が政治家として果たそうとしていたこと、そのための苦労がようやくわかってきたような思いです」、「空から見守ってくれているであろう親父を思い出しながら」という上述の首相のコメントから、それが垣間見えるような気がする。

政治評論家の故・三宅久之氏は生前、「晋太郎さんは酒席などにいるだけで、その場がパッと明るくなるような存在だった」というような趣旨の発言をされていた。つまり「華のある」人物だったのだろう。安倍首相がそのような父の資質を身に付けた時、安倍内閣は長期政権となり、日本は今よりも多くの人々が幸せを感じられる国になっているのではないだろうか。

男にとっての父親とは、母親とは全く違う意味で、特別な存在だ。安倍首相を僕と同じ括りで論じるのは失礼だとは思うが、息子は常に父の背中を目指して走っている。僕などはまだまだ父の足元にも及ばないが、安倍首相は、少なくとも政治家としての地位という意味では、既に晋太郎氏を超えている。

しかし、首相にそのような意識はないだろう。おそらくは父・晋太郎氏が目前にしながら手にすることができなかった首相という重責を、親子で手を携えながら担っている。そして、晋太郎氏の信念を想い、それを噛みしめながら、日々この国のために働いてくれているのだろう。

僕が10代の頃、初めて好きになった政治家・安倍晋太郎。そして40代になった僕が今、心から応援している政治家・安倍晋三。それが偶然なのか必然なのかは分からない。ただ、親子二代に亘ってこの国のために働いてくれているこの親子に感謝し、日本をこれからの世代の人々のために善き方向に導いていただきたいと考えている。同時に、安倍首相の父親に対する愛情を心から美しいと感じる。その想いは、僕の亡き父に対するものと同様だと思えるから。

息子にとって、父の背中に追いつける日が来るのかどうかは分からない。それを誰が評価してくれるのかも定かではない。それでも、常にその日を目指して走り続ける。息子の人生とはそんなものだ。

P.S. 書き忘れていたが、竹下氏が田中氏に反旗を翻すかたちで創政会(後の経世会)を結成した時、晋太郎氏は「実があるなら今月今宵 一夜明くれば誰もくる」という、高杉晋作が奇兵隊を作った時に詠んだとされる都々逸を書いた色紙を竹下氏に贈ったという。そして竹下氏は、その色紙をずっと大切にしていた。二人の友情はそれ程深かったようだ。


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