« 靖国参拝への反応 反日:朝日・毎日 愛国:産経 微妙:読売 ‐「正論」を曲げない安倍首相 反日メディアは黙れ!‐ | トップページ | 外交における靖国神社「問題」の起源と歴史 Part 2 ‐小泉参拝と歴史認識の相対性‐ »

2013年5月 3日 (金)

外交における靖国神社「問題」の起源と歴史 Part 1 ‐歴史教科書問題と同じ構図 中曽根参拝の罪‐

250pxyasuhiro_nakasone_in_andrews_c
(写真はWikipediaより)


前回の本ブログの記事「靖国参拝への反応 反日:朝日・毎日 愛国:産経 微妙:読売 ‐「正論」を曲げない安倍首相 反日メディアは黙れ!‐」では、閣僚などの靖国参拝に対する各紙の反応をお伝えした。産経新聞をほぼ唯一の例外として、メディアには「反靖国」、「安倍叩き」報道が溢れている。左翼勢力、メディアの批判は憲法改正へと移りつつあるが、今回は靖国神社参拝が外交問題化した経緯を論じたい。

靖国神社は、1869年、戊辰戦争等による幕末維新期の戦没者を慰霊、顕彰するため「東京招魂社」として創建され、1879年に「靖国神社」と改称された。その後、日清戦争、日露戦争、満洲事変、支那事変、大東亜戦争などの戦没者が祀られ今日に至っている(靖国神社ホームページ参照)。

敗戦後の1945年10月、幣原喜重郎首相は靖国神社に参拝し大戦の戦没者の霊を弔った。同年11月には昭和天皇も参拝。しかしその後、GHQの指示により、戦没者の慰霊祭への公的関与は一切禁止された。1951年にサンフランシスコ講和条約が署名されると、時の首相・吉田茂は、GHQから「戦没者の慰霊祭等への公人の参拝差し支えなし」という許可を得て公式参拝を行った。翌1952年の講和条約発効後、10月に創立百年記念大祭において昭和天皇・香淳皇后が参拝した。それ以降は、岸信介、池田勇人、佐藤栄作、田中角栄の各首相が、主に春秋の例大祭の時期に参拝を行っている。

田中内閣までは、首相による靖国神社公式参拝について大きな批判はなかった。しかし田中氏の後を襲って総理大臣に就任した三木武夫氏は1975年8月15日、総理としては初めて終戦記念日に参拝した際に、私的参拝4条件(公用車不使用、玉串料を私費で支出、肩書きを付けない、公職者を随行させない)による「私人」としての参拝を行った(Wikipedia参照)。

三木氏が「私的」参拝を強調したことにより、同年、天皇陛下による参拝は私人としてか公人としてか、という点が国会で問題となった。11月20日の参議院内閣委員会で社会党の追及を受けた吉国一郎内閣法制局長官は、天皇の参拝は、「憲法第20条第3項の重大な問題になるという考え方である」と答えた(櫻井よしこオフィシャルサイト参照)。天皇は翌21日、靖国参拝を行うのだが、それ以降、天皇による参拝は今に至るまで行われていない。

三木参拝以降も、歴代の首相は、福田赳夫氏4回、大平正芳氏3回、鈴木善幸氏9回と靖国参拝は継続された(「私人」としての参拝もあれば、「私人」か「公人」か明確にしない参拝もあった)。鈴木内閣までの首相による靖国参拝に関する主要な論点は、「公人」として参拝することが、憲法第20条第3項の「政教分離原則」に反しているか否かであった。この間、大平内閣時代の1978年10月17日、東京裁判におけるA級戦犯14名が国家の犠牲者「昭和殉難者」として合祀されたが、それ以降も、大平氏、鈴木氏は首相として靖国に参拝している。それに対しては、特段、外国からの抗議はなかった。つまり少なくともこの時点では、A級戦犯合祀は、首相による靖国神社参拝のハードルではなかった。

靖国参拝に関する議論がその形を変え、外交問題化していくのは、皮肉にも、靖国参拝に強い思い入れを持っていた中曽根康弘氏が首相の時だった。中曽根氏は1983年4月21日、首相就任後初めての靖国参拝を行ったのを皮切りに、1985年4月22日までに計9回参拝した。問題が起こったのは(「起こされた」と言った方がいいかもしれないが)、10度目となった、1985年8月15日の参拝。中曽根氏は公約として、「靖国神社公式参拝」を掲げており、また、戦後40年の区切りということもあって「戦後を総決算する」と述べ、同日公式参拝した。

この中曽根氏による動きには、朝日が敏感に反応した。1985年8月7日付朝日新聞は、「『靖国』問題/アジア諸国の目」と題した特集を始めた。この中で北京特派員の加藤千洋氏が、「靖国問題が今『愛国心』のかなめとして登場してきたことを、中国は厳しい視線で凝視している」と報じている。また、12日付で加藤特派員は、「人民日報が十一日付、東京特派員電で、日本国内で野党や宗教団体を中心に中曽根首相の公式参拝に『強烈な反応が引き起こされている』と報じた」とした。さらに同氏は15日付の「アジア人傷つける/中国が批判」と題した記事で、日本人記者による、「中曽根首相と閣僚等が靖国神社を公式参拝することに、中国はいかに論評するのか」という質問に対して、中国外務省のスポークスマンが、「日本軍国主義により被害を深く受けた中日両国人民を含むアジア各国の感情を傷つけることになろう」と語ったと報じた。

また、8月26日、当時の社会党が田辺誠氏を団長として訪中し、「靖国神社公式参拝で日本の平和と民主主義への逆風が強まっている」と中曽根首相を批判。田辺氏は当時中国共産党顧問だった鄧小平氏に対して、「日本についてどういうことを言いたいか」と批判を促すような問いかけをし、「我々が心配しているのは日本の軍国主義分子の動向だ。日本の政界人も個々人の行いを注意してもらいたい」という言葉を引き出した。こうした流れを受けて、27日、姚依林氏が中曽根首相の靖国神社参拝を中国の要人として初めて批判した。

これが靖国神社問題が外交問題となった端緒だ。それ以前、中国は日本の首相による靖国参拝を批判したことはなく、A級戦犯が合祀された後も何の抗議も行っていなかった。1985年の中曽根氏の参拝後も積極的にそれを批判する動きはなかったにも関わらず、朝日新聞が火をつけ、社会党がそれを増幅することによって、国内の問題であるはずの靖国が外交問題へと発展した。つまり、日本の左翼勢力ががわざわざ、貴重な外交カードを中国側にプレゼントしたということだ(以下の映像参照)。





元駐タイ大使で外交評論家の岡崎久彦氏は、この一連の動きについて、「これはもう、朝日新聞と中国の連係プレーであることは明らかですよ。そこから後はもう大騒ぎになります。中国は、中央テレビなどの報道機関が、日本の野党が出した公式参拝反対の談話を報道します」と批判している(岡崎久彦・屋山太郎著「靖国問題と中国」より)。

いくら中国に批判されようとも、中曽根内閣が「内政干渉だ」と明確に主張し、国内問題への中国による不当な介入に異議を唱えれば何ということはなかっただろう。一時的に日中関係が不安定化したとしても、大きな問題ではなく、現在でも首相による靖国参拝が行われていただろうと考える。しかし勢い込んで終戦記念日に靖国参拝を行った割には、その後の中曽根内閣の対応は情けないことこの上なく、現在に至るまで国益を大きく損ねることとなった。

後藤田正晴官房長官は翌1986年8月14日、靖国神社公式参拝に関する談話を発表した。その概要は以下の通り。

「靖国神社がいわゆるA級戦犯を合祀していること等もあって、昨年実施した公式参拝は、過去における我が国の行為により多大の苦痛と損害を蒙った近隣諸国の国民の間に、そのような我が国の行為に責任を有するA級戦犯に対して礼拝したのではないかとの批判を生み、ひいては、我が国が様々な機会に表明してきた過般の戦争への反省とその上に立った平和友好への決意に対する誤解と不信さえ生まれるおそれがある」。

「我が国が平和国家として、国際社会の平和と繁栄のためにいよいよ重い責務を担うべき立場にあることを考えれば、国際関係を重視し、近隣諸国の国民感情にも適切に配慮しなければならない」。

などとして、翌8月15日に首相による公式参拝を行わないことを表明。談話の最後に取って付けたように、「公式参拝は制度化されたものではなく、その都度、実施すべきか否かを判断すべきものであるから、今回の措置が、公式参拝自体を否定ないし廃止しようとするものでないことは当然である」と記してあるものの、完全に中国の主張に屈服し降参した体がありあり。事実それ以降、中曽根氏が首相在任中に靖国を参拝することは一度もなかった。

メディアが煽り、中国が抗議し、政府はそれにあたふたして譲歩を重ね、中国に「内政干渉」という既得権益を与える。これは本ブログの記事「自虐史観教育から子供たちを護れ!Part 2 ‐「メディアが作った」諸悪の根源「近隣諸国条項」‐」で批判させていただいた、1982年、中韓による歴史教科書に対する抗議によって「近隣諸国条項」が生まれた時と全く同じ構図だ。中国としては、何もしなくても日本にいる親中勢力が色々な外交カードを提供してくれるのだから堪えられないだろう。

中曽根氏の「覚悟なき」靖国公式参拝。そしてその後の「媚中」とも言える腰砕けの官房長官談話は、それ以降首相になる政治家による靖国参拝の大きな足枷となってしまった。歴史教科書問題に続き、日本はまたしても「外交敗北」を喫することとなった。次の首相による靖国参拝は、1996年の橋本龍太郎氏まで、実に10年以上も待たなければならなかった。
(この章続く)

関連記事
靖国参拝への反応 反日:朝日・毎日 愛国:産経 微妙:読売 ‐「正論」を曲げない安倍首相 反日メディアは黙れ!‐
自虐史観教育から子供たちを護れ!Part 2 ‐「メディアが作った」諸悪の根源「近隣諸国条項」‐


↓ワンクリックでご声援いただければ幸いです。
にほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ

« 靖国参拝への反応 反日:朝日・毎日 愛国:産経 微妙:読売 ‐「正論」を曲げない安倍首相 反日メディアは黙れ!‐ | トップページ | 外交における靖国神社「問題」の起源と歴史 Part 2 ‐小泉参拝と歴史認識の相対性‐ »

経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

町工場の親方様、本ブログにお立ち寄りいただき、また、コメント、及び参考となる書物をご教授いただきましてありがとうございます。

戦前・戦中、国民の戦意を高揚させて戦争へと導いた反省など微塵もなく、いまだに日本をおかしな方向へ進ませようとする朝日は、「国害」以外の何物でもないですよね。

民主党政権を経て安倍政権となった今、国民の意識が変わりつつあるとはいえ、反日勢力はまだまだ相当な力を持っていますので、一人でも多くの日本人に反日メディアの実態を知っていただきたいですね。

引き続き、有益な情報をご提供いただければ幸いです。宜しくお願いいたします。


近隣諸国条項・Ⅰ

近隣諸国条項制定の経過と、《日本の悪性癌、「朝日」・「日教組」・「自民党、外務省内左翼」》、について、

今か7年半ほど前の、平成17年10月、「チャンネル・桜。掲示板」、に書いたものをご紹介させていただきます。

藤岡信勝著 『教科書採択の真相』 《かくして歴史は歪められる》 PHP新書 より。

【第六話】 「中国共産党の教科書批判キャンペーン」
1982年6月26日、文部省から前日発表された高校教科書の検定結果について、新聞各紙がいっせいに報道した。そのなかで、実教出版の 「世界史」 の教科書で、検定前の 「日本軍が華北に侵略すると・・・」 とあったのが、検定後には 「日本軍が華北に進出すると・・・」 に修正された、という報道が特に注目を浴びた。当時の風潮では、文部省の検定を批判するのが新聞記者の仕事のようになっていた。

同日、中国の新華社電は簡単なコメント抜きの報道を行ったが、翌日には中国共産党の機関紙 『人民日報』 が、「歴史を歪曲し侵略を美化する日本の教科書」 と題する記事を掲載した。6月30日にも、『人民日報』 に短い記事が掲載された。しかし、それから19日間、中国はこの問題について何の報道もしんかった。問題が終わったかに見えた。

ところが、7月20日になって、『人民日報』 に 「この教訓はしっかり覚えておくべきだ」 という短い評論が掲載されたのを皮切りに、突如として、堰を切ったような日本批判が始まった。批判の強さは次第に激しくなり、膨大な量の対日批判の洪水となり、8月10日ころにはピークに達した。
二つの疑問がわく。第一に日本の教科書検定は毎年行われている。この年に限ったことではない。それなのに、なぜ、この年だけこれほど激しい対日教科書批判が起こったのか。
第二に、『人民日報』 がなぜ、「19日間の沈黙」 の後に、対日非難のキャンペーンを猛然と開始したのか。

この問題に関する田中明彦、井尻秀憲らの研究を総合すると、これは要するに中国共産党内の権力闘争と深く関係していたのである。鄧小平は、当時すでに中国共産党の実力者だったが、改革・解放路線を採用し、西側から資本を導入して経済建設を進める方針を推進していた。党内にはまだ、華国鋒など文化大革命時代の気分の残っている頑固派の幹部もおり、鄧は、さらに権力基盤を固めなければならなかつた。9月1日からは、中国共産党の党大会 (12全大会) が設定されていた。そこで、鄧は、歴史教科書問題で日本をスケープゴートにして、党内で点数を稼ぐ材料にすることを思いついたものと思われる。「19日間の沈黙」 は、そのための時間かせぎだったと考えられる。7月20日の 『人民日報』 の対日氏批判キャンペーンの開始も、鄧が直接にゴーサインを出したといわれている。(井尻秀憲 「日中関係」、田中浩編 『現代世界と国民国家の将来』 1990年 御茶ノ水書房、所収)

田中明彦は、中国共産党の教科書批判キャンペーンが、青少年の共産党離れに対処する 「愛国主義教育」 キヤンペーンと連動していたことを指摘している。8月1日、中国共産党は 「全国の軍民、とくに青少年が中国共産党を愛し、社会主義の祖国を愛し、人民の軍隊を愛することを内容とする愛国主義教育」 を繰り広げるよう号令した。それには青少年に中国民族がいかなる苦難の深みから開放されたかをわからせる必要があり、「日本軍の残虐行為」 などを教材として 「精彩に富む形式」 で教えることが目指された。そうした分析に基づき、田中は、おそらく、「日本に対し教科書の内容から 『誤り』 を取り除かせるための説得」 であった以上に、「国内に対する 『独立自主の対外政策』を示す機会であり、青少年への歴史教育と共産党への支持調達のための機会であった」 と結論づけている。(『教科書問題』 をめぐる中国の政策決定)岡部達味編 『中国外交ー政策決定の構造』1983年国際問題研究所、所収)

今、話題の、中国の反日デモ(というより、反日暴動) の基盤をつくったとされている 「愛国主義教育」 が、すでにこの時点で登場していることにご注目願いたい。「共産党への支持調達」 と党内闘争を乗り切るために、日本の教科書問題は格好の材料として利用されたのである。

「近隣諸国条項」 の制定
そんなこととはつゆ知らず、9月に訪中を予定していた鈴木善幸首相は、もし中国から訪中を拒否されれば、秋の自民党の総裁選で再選されることをめざしていた自分の経歴に傷がつくことを心配していた。そこで、宮沢喜一官房長官に支持して、この問題をおさめるように求めた。宮沢は、8月26日、『歴史教科書』 についての官房長官談話」(宮沢談話) を発表し、

「我が国が国としては、アジアの近隣諸国との友好、親善を進めるうえでこれらの批判に十分に耳を傾け、政府の責任において是正する」 と表明した。
9月14日、文部大臣から 「教科書検定調査審議会」 に対し、「歴史教科書の記述に関する検定の在り方について」 諮問が行われた。社会科担当の第二部は、委員の反対を抑え込んで 「南京事件」 など11項目について、検定意見をつけないことで合意した。

11項目の内容は、中国関係では、「侵略」 と 「南京事件」 韓国関係では、「侵略」 「土地調査事業」 「三・一独立運動」 「神社参拝」 「日本語使用」 「創氏改名」 「強制連行」 の七件、その他で 「東南アジアへの進出」 「沖縄戦」 である。

1982年11月24日、文部省は 「義務教育諸学校教科用図書検定基準」 および 「高等学校教科用図書検定基準」 を改正し、「第三章 各教科固有の条件」 の「2 選択・扱い及び組織・分量」 のなかに
「(5)近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がなされていること。」 という一項目を付け加えた。

これが、「近隣諸国条項」 とよばれているものである。
この文言だけを見れば、格別問題とするにあたらないように思えるかもしれない。「国際理解と国際協調の見地」 は大切なことであり、日本としてもこれを踏まえなければならないのは当然と思えるからだ。しかし、「近隣諸国条項」 の実質的な意味は、先の11項目に検定意見をつけないこと、すなわち、中国・韓国から文句をつけられそうなテーマについては、左翼学者が書き放題に放任する (さらにのちには、書かない著者には書かせる) ということなのである。その証拠に、この年検定中の、中学校歴史教科書には、早速、満州事変と日華事変について、「侵略」 の語が一挙に多数の教科書に登場した。「近隣諸国条項」 こそは中国と韓国の一方的な歴史解釈を日本人に強要し、歴史教科書に書かせる装置であり、そしてついには、1996年に、「従軍慰安婦の強制連行」 という、まったくの捏造された嘘を中学校の教科書にまで登場させる元凶となったのである。

「近隣諸国条項」 の制定は、二重の意味で不当なものであつた。第一に、「侵略」 を検定によって 「進出」  に変えられたという報道は、実は誤報だった。だから、この事件は、「侵略・進出誤報事件」 とよばれている。第二は、それは、日本の教育主権を売り渡す行為だった。「当時の鈴木首相と宮沢官房長官は、独立国家の主権とは何かということに極端に無自覚であったからなのか、マスコミや中国・韓国の圧力に抗し切れなかったからなのか、ともかく、日本国家の教育主権を外国に売り渡したのである。

「新編日本史」 への外圧検定事件
「近隣諸国条項」 によって、日本の検定制度はまったく変質してしまったといっても過言ではない。それは、日本の国益と尊厳を守り、日本の教育を共産主義勢力の浸透から防衛する装置であることをやめて、むしろ、国益を損ない、尊厳を失い、自国の歴史を卑しめる装置に変ってしまったのである。それを実証するテストケースが1986年の外圧検定事件である。保守系の団体を糾合した民間組織である 「日本を守る国民会議」 (現在の 「日本会議」 の前身の一つ) は1982年10月、教科書を批判しているだけでは事態は変らないとして、日本国民の教育に相応しい、高校用の日本史教科書を編集する方針を決めた。教科書は、「新編日本史」 として原書房から発行され、1985年度の文部省検定を受けた。

1986年5月24日の 『朝日新聞』 は、社会面の見開き2ページを使った大きな教科書関連記事を掲載した。見出しは 「゛復古調゛の日本史教科書/日本を守る国民会議/高校用作成めざす/原稿本で教育勅語礼賛/建国神話・三種の神器も」 というものであつた。 「日本を守る国民会議」 の『新編日本史』 が恐ろしく右翼的な教科書であるかのような印象を与えるための誹謗記事であった。その記事は、文部省の教科用図書検定調査審議会(検定審) の内部でも疑義が出て紛糾していると伝えていた。しかし、まだ、検定作業中で、国民の誰も知りえない教科書の内容を、一新聞社が勝手に暴露して批判し、検定結果に影響を与えるキャンペーンをはるというのは、かってないことだった。

その記事はただちに韓国・中国の反発を招いた。むしろ、それをあてにして、外圧を誘導するために書かれた記事であるといってもよかった。朝日の記事がでてから三日後の検定審では、それでも 『新編日本史』 の合格を決定した。日本政府は、中韓に対しては、その教科書はまだ検定作業中であると答え、文部省に対しては、再検討を命じた。こうして、正規の手続きで検定に合格した教科書に対し、以後四回にわたって、文部省から違法・不当ともいうべき超法規的な修正要求が繰り返された。

小堀桂一郎  「正論大賞」 受賞記念論文
『自らの歴史を自らの手に取り戻すために』 近隣諸国条項を廃棄し、自律への路を歩め
雑誌 「正論」 平成十三年三月号 より。

はじめに
昭和五十七年は忘れもしない 「教科書検定虚報事件」 の発生した年で、六月末から九月上旬にかけての、あの長く暑かった夏の記憶は今でもありありと脳裏に再現できるほどに鮮やかである。でも本年から数へてみればあれは十九年もの昔の出来事だった。

二十年に近い、この短からぬ年月を、我々日本人はあの忌まわしい虚報事件の後遺症に悩まされ続け、そして昨平成十二年の秋の外務省による教科書検定介入事件の如くに、今でもあの呪ひに祟られて苦しむといふ事態が生じもする。感慨なきをえない。
平成十二年秋の事態を、仮に 「中学校歴史教科書検定不合格裏工作事件」 とでも、長い名をつけて呼んでみるとして、この事件と、昭和五十七年夏の 「検定虚報事件」 との間にどの様な因果関係があるのか、そもそも二十年近い歳月を距てて二つの事件がいったいどの様な繋がりの糸で関係づけて論ぜられるのか、少し若い世代の人々にはその辺の事情が最早つかみにくくなっているといふこともあるのではないか。先行する世代の、且つ当事者の末端にともかくも位置していた者の一人として、そのあたりの事情を、次代への中継的地点に立って語り遺しておく義務の如きものがあるのではないか。さう考へて、偶々寄せられた、何か回想記風のものを、との編集部の求めに応じ、二つの事件を結ぶ脈絡とそれへの考察、及びそこから我々につきつけられてくる時務の要求とについて、思ふところを記しておきたいと思ふ。

・・・・・七月二十九日以降、当時の文部省初等中等局長は、検定により 「侵略」⇒「進出」 書き換への指示は事実として存在しなかった、新聞の記事は誤報であるとの旨を、参議院文教委員会等で数回にわたって言明している。そのことは前引の八月十日の新聞報道 (「文部省見解」) を注意深く読めば読み取れるのである。そして 『それにも拘わらず』 八月二十六日に至って、あの禍々しい 「内閣官房長官談話」 は出され、日本政府の責任に於いて教科書記述を是正させる、との約束が中・韓両国政府に通達された。

その官房長官・宮沢喜一の犯した罪 (内閣法及び国家行政組織法に違反の疑ひ、そして 「外患誘致」 といふ明白な国家反逆の行為) については、本誌 「正論」 平成九年三月号の拙論 「「漢奸」の精神病理」 の中で、筆者が平生自らに加へているたしなみの埒を大幅に越える口調で糾弾しておいたのだが、勿論文章上の非難弾劾ですむことではない。
爾来二十年に及ぶ日本の教育界への外圧といふ禍害は全くこの時のこの人物の売国的行為に淵源するものである。外交に於ける失策 (しかも意図的な) の責任が個人に対して問はれることがない、この倫理的鈍感の精神風土は昭和十六年十二月七日朝のワシントンに於ける日本大使館の大失態以来、依然として日本国のアキレス腱であり続けている。今後の日本国が是非真剣に考へておかねばならぬ検討課題である。

(二) 「近隣諸国条項」 の呪ひ
昭和五十七年の忌まはしい虚報事件から結果として二つの性質の異なる事態が生じた。一つはこの節で取り上げる 「近隣諸国条項」 であり、他の一つは次節で論及する、自前の歴史観の上に立脚した高校用歴史教科書制作の運動である。
五十七年八月の後半に入って、問題の焦点は文部省と外務省との対立といふ形に絞られてきた。文部省は、当然ながら、検定済教科書に更なる記述変更を要求するのは検定制度の根幹を揺るがすものだ、とて強く抵抗する。外務省では桜内外務大臣が先頭に立って、「首脳」 と称される人々が <近隣友好諸国との相互信頼> <早急に姿勢を正すことが必要> 中・韓両国の国民感情を <]軽く見ると大変なことになる> 等の表現で間接的に記述の変更を主張する。文部・外務両省の対立は、互ひにゆずらぬ形で二週間ほど続くのだが、そこへ八月二十六日の官房長官談話が、簡単に言へば外務省の主張に同調し、これに裏付けを与へる形で発表されたわけである。
談話のポイントは四節に分かれた全文の第二節の末尾にあり、当時の新聞紙面から直接引用してみると、 <・・・・我が国としては、アジアの近隣諸国との友好、親善を進める上でこれらの批判に十分耳を傾け、政府の責任において (引用者注、教科書の記述を) 是正する> といふものであるが、これが要するに日本国の教科書記述を支配せんとする外圧への無残な屈服の表明に他ならないことは、現在のどんな若い読者でも直ちに理解されるであらう。
ところでこの談話は次の第三節の冒頭に以下の如き、恥辱の上塗りとも称すべき対敵迎合的な約束を付け加えていた。曰く、<このため、今後の教科書検定に際しては、教科用図書検定調査審議会の議を経て検定基準を改め、前期の趣旨が十分実現するよう配慮する。

これが問題の 「検定基準」 への 「近隣諸国条項」 追加の根拠となった提言である。ここまで読んで下さればおわかりと思ふのだが、この条項の起草・添加は別に中・韓国の要求に発したわけではない。相手は現行の日本の歴史教科書の記述を 「友好」 的なものに改めろ、と申し入れてきたまでである。
だが官房長官は相手の要求の範囲を越えて、将来の日本の教育界での教科書制作にはめられることになる手枷・足枷を、自ら進んで相手に提供し媚び諂ったのである。何故そんなことをしたのか。それは九月に予定されていた鈴木善幸首相の訪中の旅を円滑に進め、官房長官としての面目を立てんためである。つまり私利を図って国家の名誉を売ったのである。
今、筆者の手元には昭和五十七年十一月二十五日付の 「文部広報」 第七四七号といふ資料がある。此を見ると前記の官房長官談話が僅か三箇月のうちに 「近隣諸国条項」 の検定基準への添加として結実した経緯がよくわかる。かいつまんで言へばかうである。

八月二十六日の官房長官談話を受けて、当時の鈴木内閣の小川平二文部大臣は、九月十四日付で 「教科用図書検定調査審議会」 に対して、「歴史教科書記述に関する検定の在り方」 について諮問した。九月七日のサンケイ新聞の報道で、一連の紛糾は要するに誤報に基くものだと判明したにも拘らず、である。検定審議会の方も亦誤報のことは聞かなかったの如き態度でこの諮問についての審議にとりかかり
二箇月後の十一月十六日に文相に答申を提出した。(余計な注釈かもしれないが、この時の検定審議会に 「外務省枠」 で加はっていたのが、後に今上天皇御訪中に際して、「お言葉」 の中で 「謝罪」 の意を表明せよと立論したN元大使である)この答申に基づいて小川文相は十一月二十四日付の 「文部省告示」 で、義務教育及び高等学校用図書検定基準の一部改正を布告し、「教科用図書の内容とその取り扱い」 と題する章節十四項の次に第十五項として以下の一項を加へ、この告示は <公布の日から施行する> とした。曰く、<(15)近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がなされていること> と。
八月下旬に頂点に達していた文部省と外務省の嶮しい対立を当時の新聞(サンケイ) 紙面で辿り返してみると結構面白い。文部省側は、<いま省内には、外務省に対する恨みつらみが渦巻いている> と書かれ、<外務省に頼んだのが間違いだった。・・・外務省は単なる取次ぎ機関だ > といふ文部省高官の言葉が記事になっている。実際我々市民の眼には日本外務省は国の外交を司る機関ではなく、中国からの日本攻撃の取次ぎ所にすぎないと見えていた。一方 <しょせん文部省は二流官庁。事の重大さをわきまえていない> といふかなりきはどい外務省幹部の放言もしっかり記事になっている。

小川文相は外務省の検定介入に徹底抗戦の構へで、八月二十五日には、政府までが外務省の方針に同調するならば自分は辞任する、とまで表明していたのだが、翌二十六日の官房長官談話に接して辞表を叩きつけたのかと思ふとさにあらず、前引の如く、いつのまにか変心して十一月下旬には自らが検定制度に大きな傷をつけたその下手人となっているといふ不思議さである。
かうして、九月七日付のサンケイ新聞の画期的なおわび広告によって問題紛糾のそもそもの端著が新聞の誤報にあったことが判明したにも拘らず、何とも不思議な経路を辿って 「近隣諸国条項」 は成立した。その成立を自ら要求したわけでもない近隣の両国は、教科書に関はる紛糾が出来する度毎に、十分この条項を利用してその旨味に悦に入っている。

(三) 「新編日本史」 の編纂
五十七年夏の事件は、教育界の枠をはるかに越えて、政治・外交・社会問題としての広汎な関心を民間に喚起した。現在の 「日本会議」 はその頃は 「日本を守る国民会議」 と 「日本を守る会」 との合併以前で、筆者は前者に属していたが、この年の十月三十日に行はれた同会議の 「教科書問題を考へる懇談会」 に出席し、発言もした。黛敏郎氏がまだお元気で運営委員長を務め、自らも常に先頭に立って積極的に行動してをられた頃のことである。
この日懇談会に出席された方のうち二十人の発言録がいま筆者の手元にあるが、黛氏はじめ既に物故された方も何人か居られ、或る、或る種の感慨なきを得ない。夏の事件の衝撃を受けて様々な意見開陳がなされているが、その中に、かかる状況の打開策として最も建設的なのは我々 (「日本を守る国民会議」 を指すとの共通の了解がある) 自身の手で、自らの納得のゆくような教科書を制作することではないか、との意見が見えている。筆者自身もそれを述べた記憶があるが、改めて発言録を検して見るに、そのことを最も明快に、且つ具体的に力強く主張されたのは、当時皇學館大學の学長の任に在られた田中卓博士である。博士は同時に、日本史を社会科の枠からはづして独立させよとも述べられてをられる。これはやがて実現した。又高等学校に関しては学習指導要領だけを残して自由化(検定なし) せよとのお説もでている。

・・・原書房刊の 「新編日本史」 (現在は図書刊行会刊 「最新日本史」 といふ形をとっている) に関して、筆者はよくその執筆者の一員と思はれているがさうではない。むしろ序文として入れるはずだった 「日本の史学の歴史」 といふ章の原稿が没になった記憶がある。筆者が務めたのは 「監修」だが、これがどういふ役割かといふと、要するに本文の全体を、読みやすい校正刷りになった段階で校閲し、必要とあらば本文の欄外に入朱訂正を施し、疑点や異議を覚えた箇所にコメントを書き込んで執筆者にもどす、といふ作業である。往々に 「監修」 といふと学会のその専門学科の有力者が 「監修者」 として名前を貸すだけといふ例がある様だが、「国民会議」 の教科書と筆者の場合そんなことはしていない。だから見本本完成のの後、文部省教科書調査官の検定意見を拝聴するために、編集主任の朝比奈正幸氏と共に調査官の許に赴き、問題が紛糾してからは執筆者代表の如き顔をして文部省との交渉にも当たったのである。
昭和六十年の九月半ばには、この日本史教科書は一応所謂 「白表紙本」 の形にまで仕上がり、検定審議会に提出するところまで漕ぎつけた。ささやかな内輪の祝宴を催した記憶もある。編纂の総監督ともいふべき役を務められたのは、その十年ほど前に文部省の主任調査官を辞任された、「家永教科書訴訟」での国側証人として有名な村尾次郎氏だった。村尾氏は後に、一介のドイツ語教師だとしか聞いていなかった汝が国史教科書制作にのり出してきて、しかも結構働くとは全く思ひがけない面白い出来事だった、とて笑はれたものだ。

明けて六十一年の一月末に条件付合格の判定が出、その条件を満した内閣本について、三月彼岸の頃に文部省で二度目の検定意見の伝達といふことあり、私は朝比奈氏と共に文部省に出向いて調査官の意見を聴き、白表紙本に細かくメモを書き込んで修正・改善のための覚えとした。念のために記しておくが、調査官A氏の検定意見は、まさにこの教科書をよりよきものにするための適切な助言の趣に終始し、我々も時に反論や異議を呈しながらも概して穏やかに、相互の意見の妥協点を双方から模索する様な形で訂正要請・勧告に応じていたものである。検定意見の聴取、それに基づいての訂正結果の提出、といふ段取りを踏んで、あとは判定結果の通知を待つのみ、といふ状況になっていた時、奇妙なことに、忘れもしない、、合否判定の発表を三日後に控えた六十一年の五月二十四日であるが、朝日新聞が我々の 「新編日本史」 編纂事業のことを報道した。検定結果の公表以前であるから所謂白表紙本は部外秘の秘密扱ひのはずであるが、朝日新聞はそれを入手し、内容を知っているらしかった。
但しこの第一報を見た時、我々は多少迷惑な扱ひとは思ったが、むしろ話題にしてくれて有難い、といふくらいに暢気に構へていたのである。ところが三日後の五月二十七日、検定結果が公表され、我々の教科書の 「内閣本」 が 「合格」 と決定してからその後がいけなかった。六月に入ると朝日新聞による 「新編日本史」 非難の論調は次第に激しくなり、「復古調教科書」 と銘打って様々な攻撃を加へるようになった。(「復古調」 の刻銘は我々の嬉しく首肯するところであったが、朝日新聞の感覚ではこれが誹謗の意味になるらしかった)。その誹謗に応じてサンケイや世界日報が論説と投書欄とで新教科書擁護の論陣を展開してくれ、なかなかに賑やかな状況を呈することにもなった。或る人の調査によると、六月初めから約四十日間、朝日新聞に 「新編日本史」 非難の記事が載らない日はなかったそうである。

しかし、六月の半ばになって、既に検定合格が決定したこの教科書に対し、文部省が本文に六箇所の再修正を要求してきた時には、我々は或る不吉な予感をいだいた。合格後の再修正要求は、五十七年の事件の時には、文部省が、検定制度の根幹を揺るがすものとして、外務省と嶮しく対決する、その争点となった重大問題である。それを今度は文部省が先に立って我々に要求してきている。いづれ背後には外務省が居るのだらうと思はれたが、文部省は外務省と対決するどころか、今度は自らが外圧の取次ぎ機関と化して我々に検定原則違反の記述修正要求をつきつけてくる、といふ形になったわけである。実は五月三十日にも文部省からの再修正要求はあった。ただ我々はそれを訂正洩れになっていた字句の正誤の追加くらいに考へて、それほど重大には受け取らなかった。(中に一箇所、単なる正誤ではない資料の削除要求があった。これは既に 「違法検定」 であった) しかし六月十日の再修正要求は全てが明らかに記述内容に関はることだったから、我々は大いなる疑惑を感じ、緊張した。ことに調査官が、この再修正要求は五月二十七日の合格決定公表以前の段階で出たことにしてもらいたい、といった小細工を弄したことで、逆にこの裏面に何かよからぬ裏工作があるらしいことを推測した。後でわかったことだが、六月七日に中国外務省は北京駐在の日本大使に 「新編日本史」 の合格に抗議する覚書を手交している。こま時彼等がこの教科書の白表紙本を手にしてその内容に眼をふれていたとはさすがに考へられない。朝日新聞の非難の論調に接して、間接的に、これは間違った歴史認識を含む教科書だと判断したとする他に考へられない。

とにかく、当時の総理大臣中曽根康弘首相氏は、この覚書に忽ちしゅう伏した。そして後藤田正晴官房長官を通じて海部俊樹文相に、北京の意向に沿ふ形でこの教科書の記述を修正させよ、と指示した。文相は、それは検定制度の破壊であるとて抵抗するどころか、唯々諾々と首相の意を奉じて、十日の編者側への再修正要求に及んだのだった。この外圧に屈しての違法の再修正要求の件は、六月十八日に中曽根氏が遊説さきの鹿児島での記者会見に於いて、自分が命令したものであることを自ら白状し、翌十九日の各紙の紙面で大きく取り上げられた。サンケイは社説(「主張」)で 「外圧に屈した教科書検定」 と題する厳しい批判を掲げ、「サンケイ抄」 は中曽根首相を名指して、四年前の土下座の醜態の再演、と断じた。

この段階では朝比奈正幸氏と筆者とが専ら執筆者代表といふ形をとり、国民会議事務局の松村俊郎氏が常に随行陪席して文部省との連夜の交渉に当たったのだが、殊に七月三日の交渉は遂に夜を徹して続き、四日の朝、家庭を持って初めて朝帰りなる経験をしたのも忘れ難い記憶である。呆れたことに、この第三次修正要求に対応しての交渉の最中に、それにかぶせる様にして第四次修正要求が持出された。これは検定審議委員の中の一部の左翼的イデオローグから出た 「便乗要求」 といふものだといふことが後で判明し、その浅ましさに実にやり切れない思ひをした。私はこれを断固拒否する態度に出たのだが、この強硬さ故に、最後の一点で新教科書の合格がふいになるのではないかとの心配も生じ、黛氏、村尾次郎氏に大いなる御心労をおかけすることになったのは何とも不本意なことだった。
そして何と言っても文部大臣が判子をつかなければ教科書の検定合格は公認されないのだぞといふ脅迫的言辞が間接に伝へられたことで、筆者のこの人物の卑しさに対する不快感は絶頂に達した。決してその脅迫に屈したわけではないが、妥協に妥協を重ねた形で、七月七日に 「新編日本史」 は最終的に検定合格の認定を得ることができたのだった。・・・

此度の外圧検定事件は、教科書検定制度といふ国の法秩序の一環を、総理大臣、内閣官房長官、外務省が先頭に立って破壊しようとし、この制度をまもるべき責務を負うている文部省に又その責任を果たそうとする意志も勇気も無く、ひとり私共執筆者側の方が検定制度の理念と実施の準則を守ろうとした、さういふ構図になっていたのである。。私共検定を受ける側が検定に抵抗したのではなく、逆に検定の 「あるべき様」 を守ろうとし、且つ守り抜く辞意を明示した。その点で、かの家永訴訟とは正反対の、といふか裏返しの構図である。但し、編纂総監督の村尾次郎氏にしてみれば、家永訴訟の時と比べて、文部省の内側にいるか外側にいるかの位置の違ひがあるだけで、教科書検定制度の理念と倫理とを守るといふ姿勢に於いては見事に首尾一貫していたわけである。その点では全く志を一にしていたはずであるのに、私の対文部省姿勢が強硬に過ぎたために、汝が全てぶち壊しにしかねない、とてこの大先輩には心ならずもひどく御心労をおかけしてしまった。

事件全体を振り返って総括してみると、一言で言へば、かうした 「復古調」 教科書の出現を憎んだ国内の所謂 「反日勢力」 が、外圧を導入してこれを外交問題化し、出版を阻止しようとし、そしてある程度までそれに成功した事件だった、と捉へることができよう。外圧自体の発源地はもちろん北京政府だが、これの介入を認めてしまったのが、総理、官房長官、外務省といふ国政の最高レベルを貫く権力線なのだから始末が悪い。国権行使の最上層部がどうしてかくも簡単に北京の恫喝に屈服してしまったのかといへば、当面の外交上の思惑といふことももちろんあるが、結局は 「近隣諸国条項」 にひそむ呪縛力の故である。七月四日のサンケイ新聞も <今回の教科書問題では、政府首脳と外務省が四年前の教科書騒動のあとの宮沢官房長官談話をタテに、終始、文部省に ゛内圧゛ をかけ、これに屈した文部省が検定審議抜きの ゛違法検定゛ を行っている図式がはっきりしてきた> と書いているし、中曽根総理、後藤田官房長官共に、ーー北京からの申し入れは明らかに内政干渉であるが、四年前の宮沢談話が国際公約の正確を有している故に、外圧の受け入れは已むをえない、との趣旨の談話をしていたことが紙上に報ぜられている。その宮沢談話は 「検定基準」 の中の 「近隣諸国条項」 として成分化されているのだから、所詮教科書問題をめぐる外交折衝に於いて日本の手足を拘束しているのは問題のこの条項である。

このことはこの昭和六十一年の事件の際にもちろん既に痛切に認識されていた。渡部昇一氏は七月七日のサンケイ新聞長官 「正論」 欄で後藤田官房長官談話に対する反論の形をとって、明快に、宮沢談話は 「日中共同声明違反」 である故に無効、北京政府からの抗議はその前提が誤報の上に立っているものである故に撤回させるべきである、との論を展開され、七月九日には社説 (「主張」) が、「『官房長官談話』を見直せ」 との標題で、四年前の政府見解は誤報の土台の上に出されたものであるから、「無効」 を宣すべきだ、と説いた。洵にその通りである。しかしながら、この二つの主張はいづれも、政府によって顧みられることなく、輿論の広汎な支持を得るにも至らなかった。国家の 「あるべき様」 に関しておよそ道理といふものが通用しないといふ点で、昭和六十年前後の日本は昭和二十年秋から昭和二十七年にかけての米軍による占領下の日本と大して変らなかった。占領者が異国の軍隊ならぬ国内の反日勢力である点が違ふといふだけのことだった。

(四) 平成十二年秋の教訓から
・・・「新編日本史」 の編纂 ・制作は別に秘密にしたわけではなく、ただ世間に注目されることもないままに進んでいたただけのことであるが、「つくる会」 の運動は大勢の支持者・賛同者を募って華々しく首途をしたのだから、自然反対陣営の探索の眼も嶮しくそこに注がれていたことだろう。そこで 「つくる会」 の教科書の白表紙本の部外者への流出といった不祥事も、殆ど起こるべくして起こったことと言へる。十二年の七月末に毎日・朝日の両紙が二種の新教科書のうち 「公民」 の方について、部外者が知るはずのない内容の一部を捉へて、反対陣営からの非難を唆す様な記事を載せた時、やはり来るものが来たな、との感想が浮かんだだけだった。
暴露と中傷はやがて歴史教科書の方にも及び、九月には白表紙本が外部に流出したことを窺はせる内容記述への批判が共同通信から全国に配送され、九月中旬には朝日・毎日両紙が同様の非難の記事を掲載した。新聞紙の記事が又しても外圧導入の呼び水となるといふ、図式は十四年前の昭和六十一年の事件の時とおなじである。

外圧はやはり北京に於いて発生した。前回にこの外圧を中継し増幅して文部省経由で執筆者側に伝へてきたのは外務省ー総理ー官房長官の線であったが、今回は少しく不思議なことに、文部省内部に直ちに外冠への呼応の動きが生じた。文部省内部といってもそれは 「教科用図書検定調査審議会委員」 歴史部会委員の一人に外務省出身者が居り、この人物が対敵内応の発動者だったのだから、或る面から見れば外圧導入の中継はやはり外務省が行ったのだと見てもよい。やがて外務省には不正工作への組織ぐるみの関与があったと見做されるに至った所以である。
この人物が既に周知の通り元インド大使で現在日中友好会館副会長 (会長は後藤田正晴元官房長官) の地位にある野田英二郎氏であるるこの人のことは産経新聞の本年一月十二日の第三面に、新聞記事としてはおそらく最大限であらう、その経歴と思想と過去の各種の発言にわたっての紹介があるので、本誌ではとくにふれない。不合格工作事件の十月中旬までの経過を詳述して河野洋平外務大臣、後藤田元官房長官、野中広務自民党幹事長等の売国奴的行動を厳しく糾弾した西尾幹二誌氏の論文 「汝ら、奸賊の徒なるや!」 (「諸君!」十二月号所載) にも野田氏のいかがはしい過去についての十分な情報が提供されている。

以上、近隣諸国条項について長い文章を書きましたが、「近隣諸国条項」、撤廃に反対する、
《朝日=築地カルトチョーニチ》、なるものがいかにタチの悪い憎日新聞であるかよくご理解いただけたと考えます。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1766628/51402740

この記事へのトラックバック一覧です: 外交における靖国神社「問題」の起源と歴史 Part 1 ‐歴史教科書問題と同じ構図 中曽根参拝の罪‐:

« 靖国参拝への反応 反日:朝日・毎日 愛国:産経 微妙:読売 ‐「正論」を曲げない安倍首相 反日メディアは黙れ!‐ | トップページ | 外交における靖国神社「問題」の起源と歴史 Part 2 ‐小泉参拝と歴史認識の相対性‐ »

フォト

アクセスカウンター

2013年11月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ

著作権

  • Copyright © 2012-2013 Mich Maruyama All Rights Reserved.