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2013年1月

2013年1月31日 (木)

日本が抱える「公明党問題」Part 1 ‐安倍内閣「戦後レジームからの脱却」への障害‐

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(写真は公明党fbページより)


1月30日付読売新聞
によると、日本維新の会の石原慎太郎共同代表がツイッターを始めたようだ。歯に衣着せぬ発言に「定評」のある石原氏が、今後どのようなツイートを発信していくのか、非常に興味が持てるし、政界の長老としての率直な意見を伺いたいものだ。

同氏の最初のツイートがまた、非常に興味深い。

「安倍内閣は公明党と肩を組むまま果たして、諸悪の根源の憲法を改正が出来るのだろうか。北朝鮮に拉致されたままの同胞を取り戻せず、集団自衛も出来ず、国民の権利と責任のバランスを欠いたまま放置し、世界で孤立し軽蔑にさらされている原因の憲法を今変えなければこの国は沈んでしまうのに」。

これは、ひとり石原氏のみならず、安倍首相の「戦後レジームからの脱却」という思想を支持し、美しい国、日本を取り戻してほしいと願っている人々の共通の懸念だろう。

率直に言って、自民党が公明党と連立を組んでいることは、今後、安倍内閣が実行しようとしている政策にとってマイナスにしかならない。

最近の話題では、今月末訪中した公明党の山口那津男代表。訪中前、尖閣問題に関して香港のテレビ局に対し「将来の知恵に任せることは一つの賢明な判断だ」と述べ、「棚上げ論」に言及。日中双方が自衛隊機や軍用機の尖閣諸島上空の飛行を自制することも提案した。

また、現地で中国共産党の習近平総書記と会談した際には、「ホスト」でありながら笑顔で迎えることすらしない無礼な同氏に対して、深々と頭を下げる場面も見られた。あれではまるで「朝貢」だ。

公明党は日中国交回復時から中国にパイプを持っているため、今回、安倍首相も山口代表に習総書記への親書を託したと思われる。首相側にも様々な判断があったと思われるが、結果として、山口代表の言動は、中国メディアで「宣伝」として利用されている。

この点について読売は1月26日付の社説で、「先に訪中した鳩山元首相は、尖閣諸島を『係争地だ』と述べた。領有権問題の存在を認めたことなどから、中国の主要紙が大きく取り上げた。中国に利用されていることが分からないのだろうか」として、暗に山口代表も鳩山元首相と同じ轍を踏んでいることを示唆している。

ここで、公明党という政党について、その歴史・思想などを議論し、同党の何が問題なのかを明確にしたいと思う。

1961年衆議院進出を目指し、「公明政治連盟」が結成され、1964年にそれを改組し、宗教政党「公明党」が設立された。衆議院で同党が初めて議席を得たのは、1967年に行われた総選挙において。いきなり25名が当選した。

公明党は当初、創価学会の所轄内にあり、創価学会と一体となって活動を行っていたことから、憲法の「政教分離原則」に反しているとの批判がマスコミや有権者から多くあがった。言論出版妨害事件をきっかけとして、1970年、公明党は創価学会との制度的分離を明確化し、批判の回避に努めた。

1993年には、非自民の細川連立政権樹立に伴い、結党以来初めて政権与党となった。その後、1999年の自民党・小渕恵三内閣成立の際、自民党からの要請を受け連立に参加。民主党政権誕生を受けて野党に戻ったものの、自民党との連携は続き、昨年の安倍内閣発足により、与党に復帰した。

このような歴史を持つ公明党の何が問題なのか。

まずは、その支持母体である創価学会との密接な関係。つまり政教分離の原則に関する議論である。

内閣法制局は、「憲法の政教分離の原則とは、信教の自由の保障を実質的なものとするため、国およびその機関が国権行使の場面において宗教に介入し、または関与することを排除する趣旨である。それを超えて、宗教団体が政治活動をすることをも排除している主旨ではない」という見解で一貫している。個人的には、この内閣法制局による憲法解釈に対して、大いに異論がある。

というのも、創価学会と公明党の間には、他の宗教団体と政党との関係とは相当異質なものがあると考えられるからである。

両者の関係を批判すると、例えば、神社本庁を母体とする神道政治連盟が主に自民党を支持しているなど、様々な宗教団体が政治活動を行っているとの反論がある。宗教団体による特定政党の支持という点においては同様であり、一見もっともらしい主張に思える。しかし実態は全く違う。

自民党も様々な宗教団体から支持されているのは確かではあるが、それは、例えば各種経済団体、農協、その他の組織が自民党を支持する中のひとつの支持勢力として宗教団体が存在するに過ぎない。

一方、公明党の支持者は、ほぼイコール創価学会員と言っていいだろう。学会は各種支持団体のひとつなどではなく、公明党は「学会員の政党」なのだ。その裏付けとして、以下の数字をご覧いただきたい。

<衆議院選挙自公民得票数(比例代表)>
党名 2003年 2005年 2009年 20012年
自民党 20,660,185 25,887,798 18,810,217 16,624,457
民主党 22,095,636 21,036,425 29,844,799 9,628,653
公明党 8,733,444 8,987,620 8,054,007 7,116474

(数字は総務省ホームページより)

上記の得票数から読み取れることは、昨年の総選挙においては、投票率が下がったことが影響し、どの政党も大きく得票数が減っているものの、自民、民主が選挙ごとに相当得票数に変動があるのに比べ、公明はほぼ安定して、一定の得票数を確保しているということ。 これは間違いなく、公明党は創価学会による組織票に支えられていることを示している。

内閣法制局の見解では、憲法は宗教団体が政治活動を行うことを排除していないのだとしても、表向きのシステムでは政教分離を謳いつつ、実質的には宗教団体に支配されている政党が、政権与党として、国の方向性を決めることまで憲法は善しとしているのだろうか。

憲法第20条第1項は、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」と規定している。これが、内閣法制局の解釈の通り、「信教の自由の保障を実質的なものとするため、国およびその機関が国権行使の場面において宗教に介入し、または関与することを排除する趣旨である」のは当然としても、現在政権与党となっている公明党が実質的に「宗教団体」として、「政治上の権力を行使して」いることは疑いの余地がないと考えられるのだが。

山口代表は訪中時の1月24日に行われた、中国共産党・王家瑞中央対外連絡部長との会談で、「公明党の創立者である池田名誉会長が日中国交回復に大きな役割を果たした。その基本的な精神をわれわれも受け継がなければならない」と述べた(msn産経ニュース)。この発言こそ、公明党=創価学会という現実を如実に表していると思われる。

しかし、現在の日本においては、それを指摘することが一種の「タブー」とされている。これは、稿を改めて議論させていただくが、その不健全さこそが、日本が抱える「公明党問題」のひとつなのだ。

そして、もうひとつの問題は、そうした与党としての「権力」を持った公明党が、その政策において、極端な親中・親朝鮮半島の思想を持っているという点である。同党は、人権擁護法案外国人参政権付与に賛成の立場をとっていることなど、その思想において、自民党よりは余程社民党や民主党左派の連中に近いと言える。公明党の政策は非常に分かりやすい。基本的には、彼らは決して中韓朝が嫌がることを主張しない。つまり「反日」である。

その根本にあるのは、創価学会の名誉会長・池田大作氏の思想である。

中国には、池田氏はこれまで10度、北京、西安、鄭州、上海、杭州、広州などを訪れ、毛沢東、周恩来、鄧小平、江沢民、胡錦濤、温家宝など、歴代の中国政府指導者をはじめとして、中国各界の要人と会見するなど、親密な関係にある(Wikipedia参照)。

それ以上に韓国については、「自虐史観」を超えて、日本を卑下していると思われる発言が目につき、もはや「異常」としか表現できない。

1999年12月2日、当時のイ・スソン韓国総理との対談で、「貴国は、まことに日本に『文化の師匠』の国で、教育でも兄さんの国です。私は心深い所から尊敬しています。それにもかかわらず、…貴国を侵略した日本はいくら愚かだったか」、「韓国が日本文化の『大恩である』ことは言うまでもない。仏教を含めてすべてのものに恩恵をこうむったと言っても過言ではない。それならどうしてこれ『大恩である』国を裏切っただろうか」などと発言している(Wikipedia参照)。

それほど韓国が大好きなのであれば、創価学会、公明党含めて、池田氏に連なる一族郎党、韓国に移住してくれ、と言いたくなるほどの「媚韓」ぶりである。

そのような親中、超親韓の池田氏の思想を受け継ぐとしている公明党が、尖閣問題を棚上げしたいのは当然であろうし、竹島は韓国に「不法占拠」されていると言えようはずもない。

安倍首相の「戦後レジームからの脱却」において重要な改革である、憲法改正、集団的自衛権容認、尖閣諸島、竹島、北方領土など、領土問題に毅然とした態度で臨むことなどについては、公明党は間違いなく「獅子身中の虫」となるだろう。何せ、中韓が嫌がることを行うなど、「池田先生」の思想に反する行為なのだから。

このように、安倍内閣が進めようとする政策において、「障害」となること必定の公明党など、とっとと切り捨てればいいと誰もが考えているだろう。僕もそう思う。

次の参院選で、自民+第三極で3分の2以上の多数を確保できれば、公明党などお払い箱にできるとの議論もある。しかし、ことはそれほど単純ではない。

創価学会=公明党が巧妙に張り巡らした「システム」によって、日本の政治は大きく歪められているのだ。
(この章続く)


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2013年1月27日 (日)

アルジェリア人質事件での「実名報道問題」Part2 ‐「庇い合い体質」メディアに自浄作用なし‐

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(写真は朝日新聞デジタルより)


1月26日までに、アルジェリア人質事件で犠牲となった日本人10名全員が帰国された。厳しい環境の中でアルジェリアの資源開発にご尽力された皆さまのご冥福を、あらためてお祈りしたい。

これまで、イスラム圏での対日感情は良好とされ、イスラム過激派のテロの標的にされることの少なかった日本人だが、今回、武装勢力は当初から日本人を人質にする予定だったという。何故か?

青森中央学院大大学院の大泉光一教授(海外危機管理)は、「日本は身代金要求を拒否せず、カネを取りやすい国だと思われている」ため、「身代金目的に狙われた可能性は十分にある」と指摘する(msn産経ニュース)。

一方で、イスラム過激派に対して、常に欧米に追随する姿勢を見せる日本に対しての、イスラム世界での感情が変化している可能性もある。いずれにせよ、今回の事件で「何故日本人が標的になったのか」という点についての分析は、今後のテロ対策のため非常に重要であるので、関係当局による、事実の解明が欠かせない。

さて、前回の記事「アルジェリア人質事件での「実名報道問題」Part1 ‐「信義」なきメディアに「理」なし‐」で議論した、メディアによる犠牲者の実名報道に関しての、その後の動きを以下フォローしてみたい。

大手各紙は、実名報道の正当化で足並みを揃えている。

毎日は「テロ犠牲者10人 『名前』が訴えかける力」と題した1月26日付社説で、実名公表の是非がネットなどで大きな話題となったことに触れ、「事件や事故(災害も含め)で亡くなった人を実名・匿名いずれで報道するのかはメディアにとって悩ましい問題だ」とその心情を吐露する。そのうえで、「遺族の意向も考慮する。それでも、取材は『実名』がなければスタートしない。名前は本人を示す核心だ」と、実名報道の重要性を強調。

毎日の社説で評価できるのは、「実名公表を巡り論争になった背景にメディアの取材姿勢への不信感があるのも確かだ。集団的過熱取材が強く批判されたこともある。遺族の心情を踏みにじるような取材が許されないのは当然だ」、「新聞倫理綱領は『自由と責任』『品格と節度』をうたう。その原点を記者一人一人が自省すべきだ」と、メディア自身の問題点を指摘している点。ただ、かく言う毎日が、「品格と節度」を持った取材活動を行っているのかどうかは、また別の問題だと思うが…。

読売は26日付の記事で、識者の声として、一橋大名誉教授・堀部政男氏(情報法)の「重大事件では氏名が公表されることによって、社会がより一層身近に受け止め、報道機関も政府とは別の視点から検証することができる。氏名が速やかに公表されれば、海外に進出する日本企業にとって、安全を確保していく上で教訓になるだろう」、常磐大教授・諸沢英道氏の「今回の事件の犠牲者は一方的に巻き込まれた無辜の被害者だったことを考えると、犠牲者を匿名にする理由はない。遺族が氏名公表を強く望まないのであれば、報道各社が実名、匿名を判断すればいい」とのコメントを引用。

また、被害者の実名公表を希望した、1995年の地下鉄サリン事件、2001年の米同時テロの遺族の声を紹介。全体として、実名報道は必要との論調。

実名公表に異を唱える識者も存在するはずだが、そうした声を紹介せず、賛成者の主張のみを掲載することは、著しくバランスを欠く記事であるし、自社の実名報道を正当化しようとする意図に満ちたものだと判断せざるを得ない。

産経は26日付の産経抄で、「アルジェリアで陣頭指揮をとった日揮の社長や横浜本社で報道陣の対応にあたった広報部長は、立派に務めを果たした。そのうえでの苦言だが、生還者7人を黒い目張りをした車で空港から本社に移動させたのは間違いだった」。

「テロの惨禍から生き延びた彼らは間違いなく、『ヒーロー』だ。英雄には英雄の扱いが必要なのに、名前も顔も公表しないとは『危機管理』をはき違えている。非業の死を遂げた人間や生還者みんなが、『特別な人』なのである。『企業Aの従業員』や『派遣社員』で片づけられてはたまらない」と、メディア側の論理を一方的に主張し、日揮を批判。

この主張からは、自らが勝手に「特別な人」を規定し、そのような存在は「我々の取材を受けて当然だろう」という傲慢さ、特権意識が感じられる。読者・視聴者の支持があってこそ、メディアの知る権利への貢献者としての地位が保障される。今回の実名報道には多数の批判があることには一切触れず、手前勝手な論理を展開する産経こそ、メディアの存在意義を「はき違えている」のではないか。

さて、「問題の」朝日新聞はどうか。「問題」とは、上述「アルジェリア人質事件での「実名報道問題」Part1 ‐「信義」なきメディアに「理」なし‐」で指摘したように、朝日は犠牲者の甥、本白水智也氏を取材した際、同氏との「叔父にも家族にも迷惑がかかるので、実名は出さないで欲しいということ。もう一つは記事にする際私に許可を取る」(ガジェット通信参照)という約束を反故にし、1月22日付の朝刊に犠牲者の実名と写真を掲載したことだ。これに対し、本白水氏は明確な抗議を行っている。

その朝日は1月25日、自社が取材対象者との約束を破ったこと、また、それに対して抗議を受けていることなどなかったかのように、「日本人犠牲者名、実名公表に賛否 アルジェリア人質事件」と題し、第三者的な記事を掲載している。

同記事では、瀧本哲史・京都大客員准教授の「実名とか、遺族の悲しみとか、関係者は、報道されたくないだろうし、視聴者も報道して欲しくない」、「報道してほしい人は自ら名乗り出ればいい。報道機関が『接触したいので名前を教えてくれ』と求めるのは筋違いではないか」というコメントを紹介している。

一方で、「治安の悪い現場で会社側が十分な安全対策を取っていたか検証するために、報道を通じて被害者や遺族の声が公になることが大切」という梓澤和幸弁護士のコメントや、 上智大文学部教授・田島泰彦氏(メディア法)の「アフリカ開発と企業の関係、利益配分の仕組みや格差問題など、事件の構造的な問題を明らかにするには現地で働いていた人たちの情報が大事。そのためにも氏名の公表が必要だ、と世間を納得させる報道が求められる」との論評を掲載し、全体的には実名報道が必要という方向への誘導が明らかだ。

また、朝日新聞としては、「実名を報じることで人としての尊厳や存在感が伝わり、報道に真実性を担保する重要な手がかりになる」として、事件報道では容疑者、被害者ともに実名での報道を原則にしていると主張。東京本社・山中季広社会部長の「今回の事件でも実名報道を原則としつつ、現場では遺族や関係者へ配慮して取材を重ねている。読者からの意見や批判にも耳を傾け、『何が起きていたのか』を掘り起こす作業を悩みながら進めている」とのコメントを掲載。しかし、本白水氏との約束を反故にしたこと、あるいは同氏から抗議を受けていることに関しては全く触れていない。「現場では遺族や関係者へ配慮して取材を重ねている」のかどうか、極めて疑問である。

主要紙の主張には、理解できる部分も多い。特に、朝日の「実名報道」が「報道に真実性を担保する重要な手がかりになる」という点に異論はない。僕自身も前回の記事で、「報道においては、原則、実名報道とすべきであると考える。というのも、報道の基本的な構成要素である「5W1H」を明らかにすることは、記事の真実性に関わる部分であり、それなくして読者、または視聴者が信頼に足ると思える報道を行うことはできないからである」と主張させていただいた。

しかしながら、「名前は本人を示す核心だ」、「重大事件では氏名が公表されることによって、社会がより一層身近に受け止め、報道機関も政府とは別の視点から検証することができる」、「実名を報じることで人としての尊厳や存在感が伝わる」との考え方には、必ずしも与することはできない。

というのも、今回で言えばテロの犠牲者、一般的には犯罪被害者、及びそのご家族の心からの言葉は、仮に匿名であったとしても、報道の仕方次第で、十分読者・視聴者に伝えることが可能だと考えるし、そこがジャーナリズムの腕の見せどころなのだと確信しているからだ。

もう一点、本ブログの記事「石破自民党幹事長への外国人献金で考える『通名』問題」で以前批判したように、それほど「実名」報道、しかも犯罪「被害者」関係の実名に拘る大手メディアが、「加害者」が在日韓国・朝鮮人であった場合に、なにゆえ「通名」で報道するのか(特に朝日とNHK)?上述の朝日がいう「真実性」を追求するのであれば、通名報道などあってはならないと考えるのだが。そのダブルスタンダードの裏には何があるのか?(今回はこの点が主要な論点ではないので、これについては改めて議論したい)

とはいえ、大手メディアが今回の実名報道を正当化しようと、「必死」に「弁明」するのは、自身の正当性を確保しようという意味では当然の行動であり、同意も納得もしないが、止むを得ないのだろう(メディアとて一企業であるので)。今回の事例を教訓として、実名報道、及びメディア・スクラムに関して、更なる議論を積み重ねることが必須であることは言わずもがなではあるが。

しかし決して許容できないのは、朝日新聞が取材源との約束を破り実名報道をしたという、ジャーナリズムの根本的な倫理に関わる問題を、現在のところ、少なくとも僕が調べた限りではどの大手メディアも報じていない、という事実である。

何故、朝日新聞の「問題行動」を他のメディアが追及しないのか?それは、おそらく他社も朝日と似たようなことを日常的に行っているからだろう。今回は本白水氏が声をあげたので朝日の「卑劣な」取材活動が表面化したが、それはあくまで氷山の一角であり、泣き寝入りしている犯罪被害者、あるいはその関係者の方が多数存在している可能性が非常に高い、と僕は考える。

福島第一原発の事故後には、原子力関連組織を「原子力村」と呼んでその既得権益死守の姿勢を、大阪市立桜宮高校で「バスケ部体罰自殺事件」が起これば、教育現場の閉鎖性を、正義の味方よろしく批判する大手メディアが、自身が属する「メディア村」に関しては「村民一同」沈黙し、一切報道しないことにより、現に存在している数多の批判を「黙殺」しようとする。そのような筋の通らぬ行動は、数十年前ならいざ知らず、ネット上に様々な情報、意見が流通するこの時代にあっては、国民は全てお見通しであり、そうした姿勢が自分の首を絞めていることを理解していないのだろうか。

もし全く理解していないのであれば、救いようのない「阿呆」であるし、理解していながら「黙殺」を決め込んでいるのであれば、「二枚舌の卑劣な輩」であると言えよう。

いつも主張させていただいていることの繰り返しになるが、日本の大手メディアのこの自分にはとことん甘く、他者には徹底的に厳しい二面性。そして、他のメディアに対する批判をタブーとする「庇い合い体質」。それに薄気味悪さを感じている方は少なくないと推察する。こんな連中が、いくら偉そうに社説等で何を主張しようが、全く説得力はない。

最後に、上述の本白水氏が、「節度ある取材を申し合わる」という約束を破り、自宅に押し掛けたメディアを「逆取材」している映像をご覧いただきたい(モトシロブログ メディア・スクラムを逆取材)。

本ブログを頻繁に訪れてくださる方には、「耳にタコ」であろうが、何度でも繰り返させていただく。大手メディアとはこの程度の連中なのである。彼らには「自浄作用」など全くない。そうである以上、総務省なり、第三者機関がメディアの問題点を徹底的に検証し、国民の利益に反する行為をとことんに追及すべきだと考える。

本来、権力によるメディアへの介入を最も嫌う僕が、このような主張をしなければならないことは本当に情けない。ただ、現在の日本のメディアはそれほど危機的な状況にあるということを、どうかご理解いただきたい…。

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2013年1月24日 (木)

アルジェリア人質事件での「実名報道問題」Part1 ‐「信義」なきメディアに「理」なし‐

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本白水智也氏 写真は同氏のブログより


アルジェリア人質事件で、安否不明となっていた日本人全員の死亡が確認され、日本人の犠牲者は10名となった(YOMIURI ONLINE)。

この事件については、早急に事件の真相を究明することが求められるが、その本質から外れ、メディアによる犠牲者の「実名報道」が大きな問題となっている。

ことの経緯はこうだ。政府側は当初、犠牲となった日本人の氏名については、遺族や日揮関係者らに配慮し(つまり犠牲者遺族の心情を考えて)、公表を控えるとしていた。ところが、1月22日、朝日新聞は朝刊に犠牲者の実名と写真を掲載。これを受けて他のメディアも追随、実名が広く報道されることになった。特に23日のテレビ朝日『報道ステーション』では、古館キャスターが実名報道に至った経緯を説明(以下の映像)したうえで、犠牲者の方々の名前を読み上げた。





こうしたメディアの動きを受けて、政府も方針を転換せざるを得なくなり、菅義偉官房長官は今日の記者会見で、「明日、政府専用機が羽田に到着し、ご遺体が帰国後、私の記者会見で政府の責任のもとに公表する」と表明した(朝日新聞デジタル)。

上述の『報道ステーション』による報道、及び被害者などの情報開示を首相官邸に申し入れた内閣記者会(毎日jp参照)に対しては、ネットを中心に、激しい批判が浴びせられた。

一部の声を紹介すると、まずは内閣記者会に対して。「遺族宅に押し寄せて人権侵害するつもりなのか」、「遺族を晒しものにしてお涙頂戴記事を書きたいだけだろ」、「遺族へのいたわりとか、節度というものはマスコミにないのか」、「国民の関心が高いとかは余計なお世話。実名が必要な意味が分からない」(1月13日付JACSTニュース)。

『報道ステーション』に対しては、「報ステがアルジェリアの事件の犠牲者の名前を公表してる……まるで名前の公表を控えたいとした会社や政府よりも自分たちの方に正義があるとでも言いたいかのように、えらそうな前口上を述べてるのがますますもって嫌な感じだ。本当に今の報道機関は低俗だな……」、「被害者のご家族の気持ちを踏みにじるほうが卑劣じゃん!」、「報ステの『遺族がどんな感情を持とうとも信ずる通り勝手に実名報道させてもらう』という姿勢は、受け入れられないなあ」(アルジェリア人質殺害事件、実名報道に対する報道ステーションの弁明に批判殺到)。

僕は、報道においては、原則、実名報道とすべきであると考える。というのも、報道の基本的な構成要素である「5W1H」を明らかにすることは、記事の真実性に関わる部分であり、それなくして読者、または視聴者が信頼に足ると思える報道を行うことはできないからである。つまり、よく週刊誌等で見かける真偽不明の情報を安易に報道しないため、特にメディアによる情報を安易に鵜呑みにする傾向のある日本においては、重要な原則である。

しかし、それはあくまで「原則」であって、例外もある。例えば、企業の不正や違法行為を内部告発する場合や、犯罪に関連した情報を提供する場合など。このようなケースでは、情報提供者が組織内で不利益を蒙ったり、身の危険が迫る可能性があるため、匿名での報道も許容されると考える。政治報道に関するインサイダー情報の場合も、それに準じるものがある。

ただ、日本の政治報道においては、やたら「政府高官」、「自民党幹部」、「閣僚経験者」などの「匿名」が踊っている感が否めない。欧米のメディアでそのようなインサイダーからのコメントを引用する場合には、ほとんどの場合、「匿名を条件に語ってくれた」と説明があり、「実名で報道したかったが、止むを得ず匿名にした」という、真実に迫ろうという気迫が感じられるが、日本のメディアにそれはない。政治家、官僚などの要望に唯々諾々と従っているということが明々白々である。

そうしたジャーナリズムの原則を踏まえてもなお、犯罪被害者、及びその関係者に関する実名報道は、全く次元の違う問題である。というのも、彼らは通常、不幸にして事件・事故に巻き込まれた、何の落ち度もない一般市民だ。そのような人々を実名で報道するからには、本人の了解を得ることはもちろん、実名で報道することが社会的に大きな意義がある場合に限られると考える。

そのような観点から論じれば、今回のメディアによる犠牲者の実名報道、またそのご遺族に対する取材、及び報道の正当性に関して、非常に疑問を感じる。もちろんご遺族が取材、そして実名報道に同意されている場合は全く問題ない。しかしそれとても、いわゆる「メディア・スクラム」で取材対象者を圧迫することなく、細心の注意を払って然るべきだ。

朝日新聞による報道に関しては、率直に言って報道機関失格と言い切っていい。何故かといえば、決定的なことは、取材対象者である、被害者のご遺族との約束を破って報道している点だ。

犠牲者の甥にあたる本白水智也氏は自身のブログ「モトシロブログ」の「叔父を誇りに思います」という記事で、「…今朝の朝日新聞を見てガッカリしました。実名を公表しないという約束で答えた取材の内容に実名を加え、さらにフェイスブックの写真を無断で掲載しておりました。ただでさえ昨夜の発表を受け入れるのが精一杯の私たち家族にとって、こんなひどい仕打ちはありません。記者としてのモラルを疑います」と明確に朝日新聞の「裏切り」を糾弾している。また、同氏は同じブログの記事「朝日新聞の実名報道及び無許可報道に対する抗議文」において、朝日新聞の社長宛に抗議文を掲載している(詳細は本日付カジェット通信での同氏へのインタビュー参照)。

同インタビューの中での本白水氏の発言の中に、今回の問題の「肝」と言える部分がある。「私は基本的に実名報道に関しては、情報提供した人が合意しているのであれば構わないと考えています。今回私が問題にしているのは、記者が約束を反故にして情報を出したことです」。

つまり同氏が(そして僕も)問題にしているのは、メディアによる実名報道の「あるべき論」も然ることながら、朝日新聞による、ジャーナリズムとしての最低限の「信義則違反」なのだ。僕のような企業広報を担当していた人間にとっては、朝日であろうがNHKであろうが、「記者は平気で嘘をつく」という現状を十分理解している。しかし、そうした経験のない多くの皆さんにとっては、「大手メディアがこれほど簡単に約束を破るのか」と衝撃を覚えられるだろう。

記者にとって取材対象者との約束、あるいは取材源の秘匿などは、本来「絶対的」なものである。信頼関係があればこそ、情報提供者は自身が不利益を被る可能性のある事実や、本来は誰にも語りたくない事柄を話してくれるわけである。

欧米では大手メディアの記者が取材源秘匿のため、裁判所から命令を受けても決して取材源を語らず投獄されることもある。それに比べて今回の朝日新聞の「愚行」、及びそれを機にメディア・スクラムへとなだれ込んだ大手メディアの行状を見ると、日本のジャーナリズム(もしそのようなものが存在すればの話だが)がいかに瀕死の状態にあるのか、よく理解していただけるだろう。

本件に関しては、まだまだ議論しなければならないことはたくさんあるのだが、「終わりなき闘い」になるので、本日はここまでとしたい。各メディアの動向も含め、改めて近日中にレポートさせていただきたいと考えている。

最後に、共同通信元編集主幹・原寿雄氏は、「およそ公共情報の分野では、事実の報道も論評も、現実に対する批判性がなければジャーナリズムとしての機能を果たしえない」(同氏著「ジャーナリズムの思想」)と述べている。本件に当てはめれば、「政府が犠牲者の氏名を公表しないのには何か裏があるのでは」と疑問を持つことも、健全なジャーナリズムにおいては当然のことだと考える。

同時に原氏は同書で、ジャーナリズムによる批判は、法律(例えば刑法第230条の2第1項)で具体的に保障されているがゆえ、「ジャーナリストの倫理が社会一般のモラルより一段と厳しく、最高の水準でなければならない…」としている。

今回の朝日新聞の行動、及びそれに乗っかった『報道ステーション』を始めとする他のメディアが「社会一般のモラルより一段と厳しく、最高の水準」にあるかどうかは…、自明だろう。

本白水智也氏のツイッターもご参照ください。また、現在「実名報道問題」に関する大手メディアの動向をウォッチしているが、全く議論されていない。『報道ステーション』も、今のところ「スルー」するようである。

関連記事
アルジェリア人質事件に思う ‐「ジハード」など存在しない テロリストは単なる殺人者!‐

追記(2013年1月25日):本白水智也氏にツイッターを通して、本ブログでコメント等を引用させていただいた旨、ご連絡したところ、「引用ありがとうございます。記事を読ませていただきました。このように様々な立場から様々な意見を出すことが大事だと思います」とコメントをいただいた。同氏が提起している、メディアの倫理に関する問題は、読者・視聴者のメディアへの信頼性に関わる重要な問題であるので、引き続き同氏の問題提起、それに対する朝日新聞の対応をフォローしていきたいと考えている。

P.S. 『報道ステーション』の映像は、YouTubeから削除されたようです。


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2013年1月23日 (水)

アルジェリア人質事件に思う ‐「ジハード」など存在しない テロリストは単なる殺人者!‐

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(写真はmsn産経ニュースより)

アルジェリアで発生した人質事件について、同国のセラル首相が、日本人7名を含む8か国37名の外国人が犠牲になったと記者会見で述べた(TBS NEWSi)。

犠牲になられた、何の罪もない民間人の方々のご冥福を心からお祈りする。

安倍首相は21日付の首相官邸のfbページで、「世界の最前線で活躍する日本人が、何の罪もない人々が、犠牲となり、痛恨の極みです。残されたご家族の方々のお気持ちを想うと、言葉がありません」と、犠牲者とそのご家族の皆さんに哀悼の意を表した。

また、「無辜の市民を巻き込んだ卑劣なテロ行為は、決して許されるものではなく、断固として非難します。我が国は、引き続き、国際社会と連携して、テロと闘う決意です」と述べ、テロとの闘いへ臨む決意を新たにした。

アラブ諸国には、宗教の違いにより、また、特に第二次世界大戦後にはイスラエルを巡る対立から、歴史的に欧米に対する不信感がある。象徴的だったのは、2001年に発生した「アメリカ同時多発テロ事件(以下911)」発生直後、CNNがオンエアした、旗を振ってそれを喜ぶパレスチナ人の映像。さすがにCNNも「問題あり」と判断したのか、その後はほとんど放映されなくなったが、利害関係のない日本人である僕が見てもショックを受けたことを覚えている。

一方、その911以降、アメリカのアラブに対する強硬姿勢が目立ち始めた。アフガニスタン紛争イラク戦争、そして国内におけるイスラム系住民への人権侵害など。そうしたアメリカの動きが、アラブ世界の欧米を中心とした外国、とりわけアメリカに対する根強い反発を助長した。

アラブ側がアメリカを批判する理由のひとつに、政治的側面におけるアメリカのアラブ諸国に対するダブルスタンダードがある。

例えば、イラク、イランなどには強硬姿勢で臨んでおり、特にイラクには「大量破壊兵器を所持している」と「因縁」をつけ、サダム・フセイン政権を潰したにも関わらず、親米であるサウジアラビア、オマーン、アラブ首長国連邦などの絶対君主制国家による「人権侵害」は問題にしない。

アラブの春によって長期独裁政権が崩壊したチュニジア、エジプト、リビア、そして現在も事実上内戦状態にあるシリアなどは、カダフィ大佐のリビアを除けば、アメリカがその政治体制を容認してきた国々である。

また経済的には、アメリカを中心とした欧米諸国の国際石油資本(石油メジャー)によるエネルギー利権支配に対する反発がある。彼らはアラブにおいてその利権を独占することにより、長年に亘ってアラブ人の側からすれば、「搾取」と思われるような利益を手にしてきた。

現在は、石油メジャーによるかつてのような圧倒的な支配という状況は変わってきているとはいえ、エクソンモービル、BPなどスーパーメジャーと呼ばれる彼らの存在感は変わらずに大きなものがある。

さらには、アラブにおける各種紛争に対する、アメリカの場当たり的な対応もまた、アラブ人の不信感を強める原因となっている。

例えば、1979年に当時のソ連がアフガニスタンに軍事介入を行った際、911の首謀者とされているウサマ・ビン・ラディンは、アメリカのCIAなどの援助を受け、兵士兼スポンサーとしてソ連軍と戦った。この時、ビン・ラディンとアメリカは、共通の敵ソ連を撃退するため、いわば共に戦ったわけである。

しかし1989年のソ連軍撤退前後から、ビン・ラディンは反米色を強めアルカイーダを結成。1991年の湾岸戦争を経て、母国サウジアラビアが米軍駐留を認めたことにより怒りが爆発、急速に強硬な反米勢力となった。

結果論になるが、ソ連軍を撃退するためにCIAが「育てた」ビン・ラディンが、アメリカにおいて史上最悪のテロ事件を引き起こしたことになる。何とも皮肉な話だ。ビン・ラディンは一昨年アメリカ軍に殺害され、アメリカは911の「リベンジ」を果たすことができた。

ちなみにアメリカは、1980年に始まったイラン・イラク戦争の際も、後に宿敵となるフセイン率いるイラクと共に、イラン・リビアと戦い、1988年に停戦に持ち込んだ。イラク戦争でアメリカに囚われたフセインもまた、2006年に処刑された。

中東、北アフリカでのアメリカの行動は、基本的には「親イスラエル」と「石油利権確保」に基づいたものだと思われる。そう考えれば、ビン・ラディンやフセインに対する行動は、米国流の合理主義だとも言える。しかし傍から見れば、とりわけアラブ人にとっては、「昨日の友は今日の敵」といったアメリカの動きは、傲慢かつ唯我独尊と思われても仕方がない。

アラブと欧米の間には、無宗教、あるいは汎神論の日本人には理解不能な壁が聳えたっている。それは、十字軍に代表される、宗教的対立を背景とした、終わりなき政治・経済問題だと言える。

さて、今回のアルジェリアでのテロの目的が何であったのか、現在までのところ全く分からない。実行グループ「覆面旅団」のベルモフタール司令官の報道官は、「犯行の目的は、フランス軍のマリからの撤退と、服役中のテロリストの釈放であり、人質の殺害ではなかった」(FNN)と述べているようだが、テロリストたちは、プラントの居住区に侵入した直後に日本人を射殺したとの報道もあり(msn産経ニュース)、それが事実だとすれば、上記報道官の発言と全く矛盾する。

その目的が反欧米のイスラム原理主義的ものだとしても、あるいは身代金目的の「誘拐ビジネス」であったとしても、決して許されることのないテロであることに変わりはない。

その目的がいずれであれ、イスラム過激派は自分たちのテロ行為を、「ジハード(聖戦)」と称し正当化しようとする。「ジハード」とはそもそも、「努力」「奮闘」の意味であり、「コーラン(クルアーン )」が「神の道において奮闘せよ」と命じていることである。それを過激派たちは我田引水の解釈を行い、異教徒、特に欧米に対するテロ行為を、あたかもコーランが命じる「義務」であるかのように利用しているわけだ。

解釈は人それぞれではあるが、僕はテロリストが主張する意味での「ジハード」など存在しないし、多くのムスリムは彼らの主張を許容しないと考えている。僕のムスリムの友人たちも同じ見解であった。

僕は決して、ムスリムにのみ問題があると主張したいのではない。むしろパレスチナ問題においては、イスラエルよりもパレスチナ側にシンパシーを感じている。アメリカを始めとする欧米諸国による、イスラエル重視の政治的行動は、アラブ人にとっては耐え難いものだろう。

事実、アフガニスタン、イラクでの自爆テロなど、世界中で発生しているイスラム過激派によるテロは、そんな彼らの気持ちの発露だろうと推察する。しかしながら、どれほど「崇高」な目的があったとしても、罪のない人々を殺害することなど許されるはずがない。

無宗教である僕には、「神」というものが存在するのかどうかは分からない。ただ、もし存在するとして、それが殺人を肯定するような存在であるのならば、それはもはや「神」と呼ぶに値しないと考える。

古今東西、宗教によって多くの人間が命を奪われたことは承知している。人を救うべき宗教が、人の命を奪う原因となってしまうとは、誤解を恐れず言えば、皮肉を通り越して滑稽ですらある。

最後にもう一度。どれほどの苦境にあろうとも、どれほど他者への憎しみに溢れようとも、どれほど崇高な理念を全うする手段であると考えたとしても、罪のない人を殺すことに大義などない。イスラムに限らず、宗教の原理主義的テロリストに言いたい。あなた方には正義もなければ、正しい信仰心すらない。あなた方は単なる殺人者なのだ!世界の良心は、決してあなた方を許しはしない。


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2013年1月20日 (日)

センター試験の日に考える大学受験 ‐自民党公約に期待 「一発勝負」は酷過ぎる‐

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(写真は毎日jpより)


昨日、今日と大学入試センター試験が行われ、約57万人の受験生が試験を受けた。雪国の受験会場では、交通機関の乱れにより開始時間が遅れたり、それ以外の受験会場でもいくつかトラブルがあったようだ。それらに動揺せず、受験生の皆さんが十分に実力を発揮されたことを心から祈っている。

僕が受験したころは「共通1次試験」と呼ばれていたが、今のセンター試験と大きく異なるものではなかった。しかし国公立大学の受験制度はかなり違っていた。1次、2次と二つの試験を受ける点では同じだが、現在は複数の大学に出願できるが、当時は今のような前・後期日程のような制度はなく、1校しか出願することができなかった。

正直なところ、僕の時代に比べ、現在の仕組みは様々なオプションがあるので一見羨ましいように思える。ただ、その分色々「戦略」を練って受験校を選定しなくてはならないので、面倒なことの苦手な僕にとっては、当時の単純な仕組みが良かったようにも感じる。

いずれにせよ、制度はその時々で変わり、自分がどの時代に生まれたのか次第なので、受験生側に選択権はない。それはそれでしようがないと思う。ただ、日本の大学受験制度には、今も昔も共通する問題点が存在するので、以下それについて議論したい。

まずは、センター試験の問題点。センター試験は、全国一斉に行われる「一発勝負」の試験であり、受験生にとってはリスクの高いものであるということ。

例えば、不慮の事故等によって入院というようなことになれば、試験を受けることはできない。また、運悪く当日体調を崩していたり、直近で精神的に大きなダメージを受けるような出来事があれば、間違いなく試験の結果に影響を与える。

事実、僕の高校時代の友人は、試験直前に祖父を亡くし、不安定な精神状態で試験に臨まざるを得ず、実力を十分に発揮できずに浪人生活を余儀なくされた。そのことが試験結果の全ての原因ではないだろうが、10代の若者が、家族を亡くすという大きな痛手を抱えて「一発勝負」に賭けなければならなかったことに関しては、同情を禁じ得ない。

さらには、センター試験受験後、自分が何点取れているのかは公表されることがなく、あくまで「自己採点」の結果によって、志望校を考えなければならない。数十年前ならいざ知らず、このコンピューター全盛の時代にあって、何ゆえ正確な自身の得点を教えてもらうことができないのか?2次試験までのスケジュールがタイトであるからなのかもしれないが、それであれば日程を変更すればいいだけの話だろう。

詳細な理由が分からない僕にとっては、単に文科省なり大学関係者が楽をしたいがために、受験生にとってのベストを二の次にしているとしか考えられない。

また、日本の大学受験における一般入試は、基本的には試験での点数が全てである。高校入試と違って「内申点」は重要視されていない。仮にそれをある程度考慮しているのだとしても、試験の点数と内申点という、いわゆる「勉強が得意」という要素だけで合格者を決定することが、本当に日本の「人材育成」にとって有益なシステムと言えるのだろうか?

ここで、海外の大学入試について見ておきたい。アメリカ東部、アイビーリーグの名門・イェール大学Yale University)の出願要綱を一例として紹介する。

イェールの学部(Undergraduate)に出願する際求められるものは、高校での成績証明書、与えられたテーマに関しての小論文(出願時までに書き上げればいいので、当然時間無制限)、2名の高校教師からの推薦状、スクールカウンセラーからの報告書、そしてSAT、あるいはACTと呼ばれる、日本でいうところのセンター試験のような統一テストのスコア。

SAT(Scholastic Assessment Test・大学進学適性試験)もACT(American College Testing)も、基本的にはセンター試験と同じような学習習熟度を測るための、マークシートによるテストである。ただ、根本的に違うのは、SATは年に7回、ACTは年6回実施され、何回でも受験することができる。つまり、日本のセンター試験のような「一発勝負」ではない。ここが日本の大学入試と決定的に違うところだ。

さらには、単にテストの結果のみで合否を判断するのではなく、高校時代の成績、受験生のひととなり、あるいは高校時代どのような活動を行っていたのかなどを推薦状、報告書などから総合的に判断して、その学生がイェールにとって必要かどうかを判断する。ここもまた、日本とは大きく違う点である。

本稿ではイェール大学を例に挙げてみたが、アメリカにおいてはどの大学も、基本的には同じような基準で合否を判定する。つまり、日本とは違って試験の点数だけが決定的に重要ではなく、その試験も「一発勝負」ではない。

僕は英米両国で大学院に通ったので、上述のイェールと同じようなプロセスを経て大学院に入学した。両大学院とも、ほぼ同じような選考基準であった。

当時「受験生」として(30歳くらいではあったが…)僕が感じたのは、日本は試験の点数至上主義であるが、英米はそれだけに囚われず、僕の経歴や考え方などを考慮してくれたんだなぁ、ということだ。

特にアメリカのジャーナリズム・スクールへ出願した際、上述のSATと同様な、大学院入学を目指す受験生が必ず受けなければならないGREGraduate Record Examination)というテストを受けた。僕の英語は低レベルであったので、'Verbal Reasoning'という英語能力を測るセクションでの得点は悲惨なものだった。

僕が目指していたのは、ジャーナリズムにおけるアメリカでのトップスクールだったので、その得点で合格することは9割方不可能だと思われた。しかし、僕の経歴や、課題として与えられた小論文での内容などを評価してもらい、トップスクール6校に出願して2校から合格通知をいただいた。日本であれば、テストスコアだけで不合格にされたであろうことは間違いないが、このような「奇跡」を与えてくれるのが、欧米の大学の懐の深さだと思う。

日本の大学においても、上述のアメリカの大学が行っているような手法で、多様な側面から受験生を見て、合否を判断することがあってもいいのではないだろうか。

それを考えると、自民党の公約にある、「高校在学中も何度も挑戦できる達成度テスト(日本版バカロレア)の創設や、それを前提とした論文、面接、多様な経験重視で潜在力を評価する入試改革など、大学全入時代の大学入試のあり方そのものを検討します」という考え方は、これまでの日本を「支配」してきた「偏差値エリート」だけではなく、斬新なアイディア、思考能力を持った「ユニーク」な人材育成に貢献できるのではないかと考える。

戦後日本を支えた「偏差値エリート」は確かに素晴らしかった。しかし低成長時代となり、「失われた20年」などを経験した現在の日本には、単に試験で高得点を取れるだけの人間ではなく、様々な「壁」を「ブレイス・スルー」できる、発想能力とパワーを持った人材も必要となる。最低限の教養を持っていることは当然だが、そのうえで、「破天荒」な人間をも組み入れる懐の深さが、今の日本には必要とされているのではないだろうか。

昨日・今日とセンター試験を受けた皆さんを含め、これからの日本を背負っていただく若者たちに以下の曲を捧げ、本日の記事を締めることとしたい。あなたたちが次代の日本を背負っていくのです。力まず、焦らず、自分なりのやり方でこの国のことを思い遣ってください。宜しくお願い致します。


「またすぐ明日に変わる 忘れてしまっていないかい
残された日々の短さ 過ぎ行く時の早さを
一生なんて一瞬さ 命を燃やしてるかい
かけがえのない時間を胸に刻み込んだかい

もうすぐ今日が終わる もうすぐ今日が終わる
かけがえのない時間を胸に刻み込んだかい」


かりゆし58 オワリはじまり



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2013年1月19日 (土)

New York Timesで「日本は尖閣を盗んだ」と主張 ‐「親中」ニコラス・クリストフの激しい「反日活動」‐

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(ニコラス・クリストフ氏 写真はWikipediaより)


1月17日付YOMIURI ONLINEは、The New York Times(以下Times)のコラムニスト、ニコラス・クリストフ(Nicholas D. Kristof)氏が、1月5日付の同紙 'China’s New Leader, and the Islands Dispute' と題したブログ上の記事で「日本は(日清戦争の)戦利品として事実上(中国から尖閣を)盗んだ」と主張し、尖閣に「領土問題は存在しない」とする日本政府の立場を「ばかげている」としたことを報道。

これに対して、総領事館の川村泰久首席領事が15日、クリストフ氏と面会し、「戦利品」との主張は「事実に反する」と抗議し、日本政府の立場についても「国際法上、正当だ」とし、それに対し同氏は日本側との意見交換を続けたいと述べるにとどまったことも伝えた。

クリストフ氏については、本ブログの記事「安倍首相を「右翼の民族主義者」と呼ぶNew York Times ‐朝日に洗脳されたTimesに日本を論じる資格なし‐」で、Timesの日本に対する「偏向報道」を批判した際、同紙の日本に関する報道を歪めてきた人物として簡単に紹介させていただいた。

クリストフ氏とはどのような人物なのか。興味のある方は、上記クリストフ氏のリンク先Wikipediaページで、日本語で彼の経歴詳細が確認できるが、以下少し紹介させていただく。

同氏はハーバードを卒業後、ローズ奨学生としてオックスフォードで学んだ。この奨学制度は世界最古の国際的フェローシップ制度であり、オックスフォード大学の大学院生に与えられる。この奨学生になることは非常な難関であるため、アメリカにおいては、ローズ奨学生=将来の超エリートと考えられている。ちなみに、過去の奨学生の中で日本で知られているところでは、ディーン・ラスク(David Dean Rusk)元国務長官、ビル・クリントン(William Jefferson "Bill" Clinton)元大統領、マイケル・サンデルMichael J. Sandel)ハーバード大学教授など。

その選りすぐりの「超エリート」はTimesに入社後、LA、香港、北京、東京の特派員、支局長を経験した後、2001年からTimesのコラムニストとして定期的に、主にアジア、中東、アフリカ関連のトピックスについて執筆している。

1988年には、中国系アメリカ人シェリル・ウーダン(Sheryl WuDunn・伍潔芳)と結婚し、1990年には彼女と共に、天安門事件に関する報道で、ピューリッツアー賞報道部門国際報道賞を受賞している。その後、2006年には、ダルフールにおける「民族浄化」に関するTimesのコラムでの論説で、報道部門論説賞として、2度目のピューリッツアー賞を受賞した。

こうした経歴を見ると、表向きは「超一流ジャーナリスト」に見えるであろうし、事実、彼の報道、論説にはかなり優れたものも多い。ただ、こと日本に関しての記事となると、歴史的事実を十分認識せず誤った前提に立ち、また、偏見に満ちたものがほとんどであると断じざるを得ない。これはおそらく、彼が中国に長く勤務したこと、また、上述の中国系アメリカ人妻の影響が大きいと考えられる。配偶者が中国人なので、自身の論説においても「親中全開」。まぁ、非常に分かりやすい構図ではある。それがジャーナリストとしての倫理という観点から見れば、大きな問題だと思うが…。

というのも、これはジャーナリズムの学部1年生が習うレベルの話なのだが、利害の対立がある事柄を報道する場合、その一方に関係のある記者にはその問題について取材させない、という原則がある。

例えば、僕がアメリカの田舎町の新聞社でインターンとして働いていた時、留学生に関するちょっとした企画を思いつきキャップに提案してみた。彼曰く、「企画は良いが、お前は留学生なので、このテーマについては取材させられない」とのことで、アメリカ人の同僚が取材することになった。特に日本や日本人が絡む問題ではなかったので、正直呆気にとられたが、彼は留学生である僕を、一種の「ステークホルダー」と見做したのだろう。

クリストフ氏は2001年以降、Timesの「記者」ではなく、あくまで「コラムニスト」として論説を行っているので、その裁量の自由さを考えれば、必ずしも上述の原則は当てはまらないのかもしれない。しかし、もしユダヤ資本であるTimesの紙面において、ユダヤ人に関連したコラムニストが「親イスラエル」の論調を垂れ流すことを、経営陣としては善しとするのだろうか。

それはまずあり得ない。Timesのパレスチナ‐イスラエル問題に関する報道については、両サイドから、それぞれ、「親イスラエルだ」、「新パレスチナだ」との批判があるが、少なくとも同紙をここまでの新聞に育て上げた、アーサー・ヘイズ・ザルツバーガー(Arthur Hays Sulzberger)氏は、自身がユダヤ人であることを強く意識し、「親ユダヤ」と見られないよう常に気を配っていたし、その伝統は今も変わっていない。

要は、イスラエルとは違い、Timesにとっては日本など「どうでもいい国」なので、多少反日に過ぎるコラムニストが、親中・親韓の記事を書こうが構わない。日本がどうなろうが、合衆国の利益を大きく毀損しない限りにおいては問題にしない、ということだろうと推察する。

クリストフ氏のこれまでの親中・反日記事については、上記の当ブログの記事でも指摘した通り、2010年9月10日に、「1972年にアメリカが沖縄の施政権を日本に返還したため、尖閣諸島の問題で日本を助けるというばかげた立場をとるようになった。米国は核戦争の危険を冒すわけがなく、現実的に日米安全保障条約を発動する可能性はゼロだ」とし、「はっきりした答えは分からないが、私の感覚では、中国に分があるようだ」と主張した。「感覚」だけではなく「妻の影響」であることは明らかだが、ジャーナリズムの世界に身を置く者が、「感覚」で結論を出すとは、世界中のジャーナリストがずっこけるような凄まじい主観だ。

最近では、2012年9月19日付のTimesにおいて、以下で議論するが、台湾国立政治大学の学者・ HAN-YI SHAW氏の主張を根拠として、「私は中国の立場に同情的だ」「1895年に日本が事実上中国から戦利品として島を盗んだことを示す政府文書はとても興味深い」など論評している。

これ以外にも、同氏の「日本を貶める」ための記事は枚挙にいとまがないが、英語ができ、彼のコラムに興味がある方は、「Nicholas D. Kristof Japan」のキーワードでTimesの記事を検索していただきたい。20年近くに亘る彼の「業績」がよくご理解いただけると思う。

さて、ここからは、読売が報じた今回のクリストフ氏のコラムについて議論してみたい。これまでの彼の議論からも読み取れることだが、同氏が主張したいことは、「中国による尖閣領有権の主張には正当性がある。よって、日本は領土問題の存在を認めるべきだ。米政府も『中立』を装っているが、結局は日本サイドに立っている。そんなことをしていたら、日本のために、『無駄に』アメリカ軍を動かさなければならなくなるのだ。そんなことは許されない」ということに尽きる。

その主張には、中国というアジアの軍事大国を敵に回して日本のために戦う必要はない、とアメリカ国民に繰り返し伝えることにより、日米安保を形骸化しようという意図があり、一方で、「Timesの一流コラムニストである私が中国の言い分を認めているのだから、日本もそれに従うべきだ」といった傲慢な思想が感じ取れる。

しかしながら、クリストフ氏が「唯一」の根拠としている台湾の学者・ HAN-YI SHAW氏の主張は、日本人で尖閣諸島に関する知識がある方であれば、誰もが容易に反論できる程度の「代物」であり、その主張の和訳、及びそれに対する反論は、「日本の自存自衛を取り戻す会」代表・金子吉晴氏が自身のブログ「金子吉晴(日本の自存自衛を取り戻す会)」における、「This article by Han-Yi Shaw, a scholar from Taiwan 英訳その1」「This article by Han-Yi Shaw, a scholar from Taiwan 英訳その2」で明確にされているので、そちらをご参照いただきたい。というのも、和訳なしに単に金子氏の反論を紹介してもちぐはぐになってしまうので、まとめてご覧いただくのが最も分かりやすいと考えたためである(僕自身が原文を和訳することを「省略」させていただきたいという気持ちもあり…。済みません…)。

それにしても、Timesに定期的に寄稿するコラムニストが、日本側が発表している無数の資料を一切無視し、台湾の学者一人の議論だけを根拠として中国の主張を正当化している短絡的思考(と言うよりは意図的な偏向だと思われるが)は、クリストフ氏のジャーナリストとしての資質を疑わせるに十分な事実であると同時に、それを掲載するTimesのレベルを体現していると思われてもしようがないだろう。

とは言え、Timesが偏向し、クリストフ氏が中国系妻の影響で「親中・反日」のコラムを書き続けるのを止める術は、我々にはない。コントロールできない問題をただ批判していても全く建設的ではない。

では日本サイドとしては何ができるのか。まずは、今回、川村首席領事が行ったように、海外紙の誤った論調には、日本政府が一つひとつに対してきちんと反論することである。しかしそれだけでは全く足りない。海外での「情報戦」では、日本は圧倒的に特アにやられっぱなしであるのが現状だ。

今回のクリストフ氏のコラムも含めて、欧米の新聞のウェブサイトには「コメント」欄があり、そこには読者誰もが自由に意見を書き込むことができる。そのコメントは日本関連の記事が掲載された場合、ほとんど特アの主張で埋め尽くされる。おそらく彼らは組織的に、自国に有利なコメントを投稿しているのだろう。

対して日本は、今回のコラムでは日本人と思われる方が頑張って闘ってくださっているし、アメリカ人でも日本をサポートしてくださる方がいる。しかし僕としては、「コメント欄を単に英語ができる日本人、親日の外国人読者に任せておいてどうする」と言いたくなる。

こういう提案は少し「ダーティー」だと思われるかもしれないが、率直に言えば、世界中のメディアに対して、日本政府は「工作員」を通じて、日本に有利となる世論形成に努めるのが、国家として当然の戦略であろう。僕がフォローしているのは、Times、The Washington PostThe Guardianなどに過ぎないが、世界各国の主要紙でこうした「コメント活動」を続けることは、小さなことかもしれないが、その蓄積は必ず日本国にとってプラスになる。

政府に提言したいのは、外国メディアに対する「諜報員」を使って、世界中のメディアにどんどん日本の主張を発信せよ、ということ。日本人にとってはアンフェアだと思われる手法かもしれないが、海外では諜報活動のためには手段は選ばない。日本のインテリジェンスも、遅きに失しているとはいえ、そろそろグローバルスタンダード程度にならないと、物理的な力のみならず、情報戦でも特アに惨敗するのは目に見えている。

P.S. 僕は英語であれば大丈夫ですので、いつでも外国紙担当の工作員になる準備はできています。政府関係者の方、その気になったらお気軽にお声掛けください(笑)!


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2013年1月16日 (水)

産経新聞が示す「読売・産経 VS 朝日・毎日」の構図 ‐熱く議論せよ既存メディア 'To be, or not to be, that is the question'‐

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昨日1月14日付産経新聞は、「元日付の社説 産経『憲法改正への槌音が』」と題する「社説検証」で、読売・産経・日経と朝日・毎日・東京(中日)のスタンスの違いを明確に論じた。

同記事で、産経は自身の元日付社説(論説委員長・中静敬一郎「長期安定政権で国難打破を」)において、「『集団的自衛権の解釈見直しは待ったなしの課題』だと訴え、憲法第9条の不備についても『国の守りに大穴が開いて』」いるので、「『日本人が覚悟を決める時だ。日米同盟を堅固にして抑止力を強める。そして心を一つに中国の圧力をはね返すことに、である』と、国民に対して強いメッセージを発した」としている。

読売の社説については、「安全性を確認した原発は、着実に再稼働していく必要がある」「有為な人材を確保・育成するうえでも、次世代型原発の新設という選択肢を排除すべきではない」「成長の観点からは、原発のインフラ輸出も促進したい」と、「原発問題を手厚く論じた」とし、日経は、「日本は今や、生命科学や先端材料などいくつかの分野で間違いなく世界をリードする」という認識のもと、「わが国に『科学技術イノベーション立国』をめざせと勧めた」と論じている。

一方で、「これら3紙が、具体的な提言を打ち出すなどしたのとは異なり、残る3紙は見出しからも察せられるように、一つのキーワードで全体をくくり、かなり抽象的な論を展開した」として、朝日・毎日・東京の社説を批判的に論じている。

朝日の、「『日本を考える』を考える」という、「禅の公案のような見出し」の社説の「国家としての『日本』を相対化する視点を欠いたままでは、『日本』という社会の未来は見えてこない」という結論を、「真意はつかみにくい」と論評。毎日の「互恵精神」、東京の「人間中心主義」についても、その護憲至上主義的な主張を暗に批判している。
(※朝日に関しては、有料会員でないと全文は読めないため、リンク先にはわずか数行しか表示されていない。個人的には、全く読む必要はないと思う。当日に全文を読んだが全く意味不明な主張であった。)

産経新聞が不定期で掲載しているこの「社説検証」という解説記事では、読売、朝日、毎日、産経を中心とした主要紙の社説を比較し、それぞれの主張を分析している(定期的に掲載しているのかもしれないが、産経を購読していないためその点が不明瞭な点、ご容赦願いたい)。

msn産経ニュースで確認できた最近の主なタイトルは以下の通り。

憲法施行65年 産経「国守るには欠陥あり」(2012年5月14日)
オスプレイ搬入 「日米同盟に寄与」と産・読、朝・毎・東は「危険、配備反対」(同7月30日)
李大統領の竹島入り 産経「穏便主義から脱せよ」 「大局に立つ外交を」と朝日(同8月27日)
「国防軍」 産・読「憲法改正の論議を」(同12月3日)
自公圧勝 産経は改憲勢力の拡大期待 「右傾化」懸念強める朝日(同12月24日)
第2次安倍内閣 国家再生へ実行力問う産経、財政破綻へ懸念を示す朝毎(同12月31日)

これらを読んでいただくとよく分かると思うが、テーマは色々ではあるものの、それぞれの記事の結論には一貫した傾向がある。それは、どのような論点であっても、基本的には「読売・産経 VS 朝日・毎日」という構図にあるということである。

例えば、上記12月3日付「国防軍」 産・読「憲法改正の論議を」においては、「『国防軍』のテーマで社説を掲載した4紙の論調は、『国防軍』を支持する産経・読売と、批判的な朝日・毎日とが完全に対立する構図となった」と明確に述べている。

日本では新聞・テレビを問わず、基本的には大手メディアがお互いを批判し合うことはほとんどない。それはおそらく、記者クラブという「既得権益」を守る「お仲間同士」なので、批判し合うのは具合が悪いのだろう。それ故、どこか1社が不祥事を起こしたとしても、他社は最小限のストレートニュースで報じるに止めることがほとんどだ。いわんや、他社の記事などに対しての反論など、まず見かけることはない。 

例外としては、本ブログ「腐ったTBSは報道機関という名に値するのか? -またしても安倍総裁に対する印象操作-」で議論させていただいた「TBSビデオ問題」 、あるいは朝日新聞が、「NHK『慰安婦』番組改変 中川昭・安倍氏『内容偏り』前日、幹部呼び指摘」との見出して、中川昭一経産相と安倍晋三内閣官房副長官(肩書きはいずれも当時)から、この番組の編集についてNHK上層部に圧力があったとする報道を行った「NHK番組改変問題」が思い浮かぶ程度で、他には大きな相互の批判は記憶にない。 

そのような大手メディア同士の「庇い合い体質」を考えると、産経による「社説検証」は非常に高く評価されて然るべき解説記事であると考える。

一般人にとっては、主要紙全てを読み比べることなどなかなかできないことであるし、ましてや、各社の社説を的確に評価・検証することなどほぼ不可能である。そうした意味で、「社説検証」は、あくまで産経の視点からの検証であるとは言え、読者にトピックスに対する幅広い見方を提供することができる、意義ある記事だと言えよう。

残念なのは、産経の発行部数は160万部に過ぎず、読売の990万部、朝日の800万部(いずれも「新聞広告データアーカイブ参照」)に比べるとはるかに見劣りし、実際にこの記事を読んでいる人が新聞読者の1割にさえはるかに満たない数であるということだ(僕のようにネットでアクセスしている数を加えれば読者の割合は増加するが、それでも1割には届かないだろう)。

大手メディア同士では、その「偏向ぶり」が報道されることはほとんどないが、ネット上には、例えば「NHKの中韓報道の割合が異常に高い」、あるいは「朝日新聞は常に安倍内閣に対して批判的だ」などと、具体的事例に基づいたメディア批判(検証といった方がいいだろうか)が溢れている。例えば、「朝日 偏向報道」というキーワードで検索すれば、それこそ「ごまんと」検索結果が表示される(ちなみに、今そのキーワードを使いグーグルで検索してみたところ、検索結果数は約2,420,000件と表示された)。

上述のように、大手メディア同士が互いの不祥事、あるいは批判すべきだと思われる論調を「スルー」し合うことは、読者・視聴者である国民にとって不利益以外の何ものでもない。自社のおかしな思想を垂れ流すことはもちろん「偏向」であるが、国民の利益に適うことを報道しないことも「不作為の偏向」だと言える。

既存大手メディアとしては、ネット上の議論など「ネトウヨ」の戯言だと考えているだろうし、そう「思いたい」のだろう。しかしながら、本ブログの「既存メディアからネットメディアへ ‐余録・安倍総裁人気の源泉ネットメディアの驚異的な「政治的」進歩‐」などで主張させていただいたように、時代の流れは激しくネットメディアへと向かい、その地位が飛躍的に向上している。そのうえ、「安倍首相の「宣戦布告」 ‐無意味なぶら下がりは廃止 Facebookで情報発信へ‐」で議論したように、総理大臣でさえ、ネットメディア重視の方向性を打ち出している。

Kindleの大ヒットに見られるように、書籍を読む媒体は急速に紙から電子化へと進んでいる。紙媒体が消滅することはないとは思うが、電子媒体に多くののパイを奪われることは間違いないだろう。また、テレビ業界においても、全体的に視聴率は長期低落化傾向にあり、「テレビは見ないけどネットで映像を見る」という人々が、若い世代を中心に急増している。

このような時代背景を考えた時、報道機関としての新聞・テレビはどうすれば生き延びることができるのか?その答えは単純で、僕のような、ネット上の「素人政治評論家」に負けない、プロならではのコンテンツを提供することだ。然るに、日本のジャーナリズムは「タブー」だらけで、そうした「自己検閲」によってがんじがらめになっている。

政治家、財界、お役所、スポンサー、そんな連中に必要以上に気を遣って報道活動を行っていたら、とても彼らに勝ち目はない。何といっても僕らにはしがらみがないので、「タブー」などなくどんなことでも議論できる。また、現在は大手メディアの記者でさえ、情報収集を相当部分インターネットに頼っている。そうであれば、その点においては、記者クラブなどで得られるような超インサイダー情報を除いては、プロも素人も差はないことになる。

だとすれば、あとは分析能力の違いということになるのだろうが、各種ブログやツイッターなどを拝見していると、プロ顔負け、というか率直に主張できる分、プロ以上の分析ができる「素人」が多数存在している。そのことを大手メディアの「サラリーマン記者・編集者」は理解しているのかどうか…。極めて疑問である。

若干話が逸れてしまったが、結論としては、大手メディアが「プロとして」ネットメディアを凌駕したいのであれば、産経の「社説検証」のように、あるいはそれ以上に直截的に他社と議論すべきである。それは新聞、テレビを問わない。

戦後数十年に亘って続けてきた、「お仲間重視」、「特権階級意識」などかなぐり捨てて、真に国民の需要を満たすべく、「聖域なきメディア改革」を行わなければならない。そのうえで、素人にはまねのできない「付加価値の高い」記事を国民に提供することが必須である。

それができなければ、三橋貴明氏に代表されるような、ネットメディア出身のある種の「ジャーナリスト」(彼は政治家を目指しているようだが)にとって代わられる時代が遠からず必ず訪れるだろう。

僕自身は、現在のような「ぬるま湯」に浸かっている限りにおいては、既存メディアに対して期待もしていなければ、生き残って欲しいとも思わない。ただ、良い意味で僕の予想を裏切り、日本の歴史あるジャーナリズムの矜持を見せてもらいたいものだ。

'Status Quo'を打破するのは簡単なことではないだろう。しかし、真のジャーナリストとしてのプロフェッショナリズムを持っているのであれば、不可能なことはない。「茹でガエルの法則」に従ってこのまま滅亡するか。それとも、ジャーナリストらしい不撓不屈の精神で復活するか。それは全てあなた方次第である。

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2013年1月14日 (月)

地方紙で垂れ流される「左翼思想」 ‐偏向・共同通信の恐るべき地方支配‐

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(共同通信本社 写真はWikipediaより)


「旧来型の手法全開」(1段の半分の大見出し)、「族議員に官僚便乗」(4段の小見出し)。

これは1月11日に安倍内閣が緊急経済対策を閣議決定した翌日、1月12日付の、僕が現在在住している新潟県の県紙(発行エリアが一府県の全域にわたる新聞)・新潟日報が2面(総合)に掲げた見出しである。

この日の新潟日報は、一面では「60万人の雇用創出」と4段の見出しで、安倍内閣の緊急経済対策を客観的に報じながらも、「しかし国の借金である国債を5兆2千億円発行することになり、国の財政は一段と悪化する」と内閣批判も欠かさない。

そして2面においては、冒頭の見出し等の記事で「アベノミクス」に批判的なスタンスで一貫している。曰く、「財務省は、民主党の野田政権が敷いた財政再建路線を何とか維持しようと、当初は対策の規模拡大に抵抗する姿勢をみせたが、政治の大合唱を前に『最後は膝を屈した』(経済官僚)。財政の歯止めは吹き飛んだ」。「民主党政権は『コンクリートから人へ』を掲げ、子ども手当や高校無償化などを通じて、需要や雇用を生み出すことを目指した」。「民主党政権が減らした公共事業を復活させ、財政拡大路線にかじを切った緊急経済対策」…。

民主党政権による経済対策(そのようなものが存在したとすればの話だが)の効果を検証することなく、安倍内閣の経済対策を一方的に批判する姿勢は、もはや民主党の機関紙かと見紛うばかりだ。

ただ、新潟日報が紙面に掲載されたような左翼的思想を持った新聞なのかといえば、必ずしもそうではない。その裏には、共同通信の存在がある。

まずは日本の新聞について説明させていただきたい。本ブログの記事「大手メディアの安倍内閣報道 Part 2 ‐ネット騒然・中日「実力発揮」そして「番組崩壊」TBS‐」で既に説明した内容であるので繰り返しになるが、ご容赦いただきたい。

いわゆる全国紙と呼ばれのが、読売、朝日、毎日、日経、産経各紙。各府県でのみ発行されているのが県紙。例えば、僕が今住んでいる新潟県においては、新潟日報が県紙に当たる。それらに対して、県紙よりも規模は大きいけれど、全国紙のようには日本中を網羅していない新聞をブロック紙と呼び、中日新聞、北海道新聞、西日本新聞、河北新報、中国新聞などがこれに相当する。

全国紙やブロック紙に比べて資金力のない県紙が、全国ニュースをカバーする能力はもちろんない。そこで登場するのが共同通信である。

共同通信(一般社団法人共同通信社、以下共同)は、英国のロイター、米国のAPとならぶ、世界を代表する通信社であり、日本国内はもとより世界に圧倒的な取材網を構築している。NHKや各種新聞計59社が社員社として、毎年の予算を負担する社団法人組織をとっており、社員社は日経、産経のほか、上述ブロック紙の中日、北海道新聞、西日本新聞が主で、特にブロック紙の出資比率が高いとされている(配信先の報道機関はWikipedia参照)。そして共同通信は、その社員社などに記事を配信し、それを県紙始め各種メディアが記事として掲載することとなる。

共同が記事を配信し、それを各種メディアが活用することは全く問題ない。資金力がなく、広範な取材網を持てないメディアが幅広いニュースを提供するため、共同のような通信社の配信を活用するのは全世界的に見ても当然であり、メディアの世界では常識であるからだ。しかし、日本においては、この国特有の問題点がいくつか存在する。

まずは、日本の県紙の報道力は極めて低く、地元発のニュース以外、つまり、政治面、社会面、経済面、国際面、そのほとんどが共同からの配信記事で埋められていること。読者は各紙独自の取材による記事であると考えているものが、実は共同の配信によるもので、全国の県紙がほとんど同じものを掲載している「金太郎飴」的なものだということは、多くの読者が知らない「隠れた事実」である。

僕がそれに気付いたのは、当時勤務していた企業の広報部に配属された時。所属していた支社は複数の県を統括していたので、自社記事のスクラップのため、毎朝複数の県紙を読んでいた。ある時、日付は違うけれども、二つの県紙がオピニオン的なコラムで、全く同じ記事を掲載しているのが目に留まった。それを不思議に思い、色々調べたところ、共同による地方紙支配の構図を理解したわけである。

それが二つ目の問題に繋がるのだが、例えばThe New York TimesThe Washington Post、あるいはThe Guardianなど欧米各紙が、AP、AFP、ロイターなど通信社の記事を引用した場合は、「これは我々の取材記事ではなく、通信社からの配信記事ですよ」と分かるように、必ず引用した通信社のクレジットを入れる。しかし日本では、各メディア自らが共同に出資していることもあってか、配信記事を丸写ししても「共同」というクレジットを入れないメディアが非常に多い。

APなどの記事をクレジットなしで引用すれば、著作権侵害で猛烈な抗議を受けるが、共同はその資本関係からか、その点に関して配信先に抗議することはない。自社の独自取材の記事ではないものを、あたかもそうであるかのように掲載することは、メディア研究者として、かなり倫理的な疑問を感じる。しかしそれとても、読者サイドから見れば、大きな弊害ではない。愛読紙の能力を過信する程度の誤解で済むからだ。

より深刻なのは三つ目の問題。それは、大袈裟に言えば、新聞社の「魂」とも言える社説も、各県紙は共同の配信を「コピペ」している事実である。

共同から加盟社に対しては、日々大量の配信がなされているが、その中に「資料版論説」と呼ばれる、いわば社説の「虎の巻」のようなものが存在する。それは、共同が加盟社に配信する社説を書く際の参考資料であり、政治、経済、国際など、地方紙では突っ込んだ取材が難しいテーマに関しての、いわば「雛形」である。

ブロック紙は比較的「取材力」があるので、独自の論説を展開していると推察するが、少なくとも県紙は、この「資料」を多少削ったり、書き換えたり、あるいは「そのまんま」掲載したりしている。社説までも共同頼みであるこの現状を、県紙の記者・編集者はどう考えているのだろうか。記事も解説も、そして社説までも通信社の配信記事で埋めるのであれば、そんな新聞に存在価値があるのかどうか、極めて疑問である。

それでも、我が実家は県紙を取り続けている。理由は、母が「訃報欄」で義理のある方々のご不幸を確認したい。それだけのことである。だとすれば、地方においては、「訃報専門新聞」を発行しても採算が取れるのかもしれない。

ここまで議論してきたことは、ジャーナリズムとしての倫理の問題であるが、それでさえ、共同が「フェア」な記事を配信しているのであれば、大騒ぎするほどのことではないのかもしれない。最大の問題は、地方紙が報じるほとんどのニュースを提供し、社説すら依存させている共同が「偏向」していると思われることだ。

産経新聞社会部編集委員・安藤慶太氏は、共同が配信する「要注意原稿」として、以下の項目を挙げている。

・北海道はじめ教育行政に関する記事、特に国旗国歌問題や道徳教育、教職員組合をめぐる様々な原稿
・教科書問題や歴史認識をめぐる記事
・領土問題をめぐる記事
・北朝鮮関連、最近では高校無償化策のうち、朝鮮学校への適用の是非をめぐる記事
(責任編集・日下公人「誰も書かなかった『反日』地方紙の正体」より)

冒頭の新潟日報の記事も、そうした共同の「反日」姿勢を反映したものであり、それは日報のみならず、全国の県紙に「垂れ流されている反日思想」である。朝日、毎日、NHK、TBS、テレ朝などの「偏向」は全国民にとって分かりやすく、批判しやすいものであるが、共同による地方紙支配は、認識されにくいものであるにもかかわらず、その影響は甚大である。

というのも、新聞に関して言えば、全国紙(読売、朝日、毎日、産経、日経)の発行部数の合計はおよそ2500万部。それに対し地方紙(ブロック紙含む)の部数は約2000万部(数字は各種資料から推計した「ざっくり」とした数値であるので、その点ご了解いただきたい)。しかも地方紙は、ほとんどの地域で普及率が50%を超える。それほど影響力のあるメディアが、取材網の弱さゆえ唯々諾々と共同の配信をそのまま記事化していると考えると、日本では大都市よりも、地方においてより「反日思想」が形成されやすい状況にあると考えられる。これは首都圏在住の方が考えておられる以上に、深刻な問題である。

ただ、光明もある。ツイッターで僕がフォローさせていただいているapplejonagold氏は昨年12月20日、「産経新聞を購読しているが、今朝はポストにもう一紙。『ぜひ一度、読んでみてください』と書かれたチラシと共に入っていた地方紙。同じ日付、早速一面を比べてみる。産経新聞一面『物価目標2% 日銀に要請 安倍氏、政策協定も』かたや、地方紙一面『韓国大統領に朴氏』・・・これなんだよ、この違い」とツイートされていた。

それに対して僕は、「まぁ、地方紙は共同通信頼みですからね。私の地元の地方紙も同様です。そんなニュース興味ないのに…」と返信させていただいた。

また、伊坂ドン氏は「新潟日報はかなり左寄りですよ。今日の朝刊一面には『バラマキへの回帰』とありましたw社説でも新政権に冷ややかです」とツイートされており、「地方紙は共同通信のコピペですから、必然的にそうなりますよね」と僕の意見を伝えた。

彼らのように、地方紙の問題点を理解されている方が存在していることは、今後、共同の偏向を「追及」していくうえで、非常に心強い事実だといえる。

全国紙、あるいはキー局の「偏向」はほぼ全国民が「監視」できるので、ある程度「健全」な状態にあると言えるだろう。一方地方紙は、その地域の人にしか読まれず、かつ、共同の「支配下」にあるなどとは、多くの人は知らない。それ故、共同にコントロールされた地方紙の偏向を理解している皆さんは、今以上に声を上げる必要がある。

本ブログを読まれている知識のある方には分かりきったことかもしれないが、現在の日本におけるメディアの状況を知らずにおられる方に、少しでも現状を伝えるべく、「地方紙も偏向『させられている』」と主張することは極めて重要だ。

ただ、何の力もない僕一人では、なかなか世の中に真実を伝えきることはできない。それゆえ、全国の心ある皆さまに、共同による「地方支配」を少しでも多くの方に伝えていただき、それに囚われることなきよう啓蒙していただきたい。それは僕の考えを押し付けようという意図ではなく、事実を知ったうえで、自分がどう考えるのか判断する材料を持っていただきたいという観点からのお願いである。日本国の健全な民主主義発展のため、どうぞ宜しくお願い致します。


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2013年1月11日 (金)

安倍首相の「宣戦布告」 ‐無意味なぶら下がりは廃止 Facebookで情報発信へ‐

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(写真はいずれも首相官邸fbページより)


昨日1月10日、首相官邸がFacebookページを開設した。安倍首相は最初の投稿で、「私個人のFacebookでは、引き続き私自身の働きぶりや身近なトピックをお伝えしていきますが、この首相官邸ページでは、安倍内閣の政策や官邸で起こる日々の出来事などを、わかりやすく、目に見える形でお伝えしていきたいと思います」とコメントしている。

これに先立つ1月9日、首相は自身のfbページで、「ぶら下がり取材」を拒否する旨、宣言していた。「かつて行っていた毎日二回のぶら下がり取材は止めようと考えています。世界でこの様な対応をしている国はありません。それは首脳の発言は重く、国益に対する影響を考えれば、情勢を把握し熟慮たものでなければなりませんし、首脳としてコメントすべきで無い事もあります」との理由からだ。

この安倍首相のメディア対応の方向性について、僕は大いに支持する。ぶら下がりでの質問は埒もないものばかりで、以前から不要だと考えていた。単に番記者が、首相と1日1回はコミュニケーションを取りたいという発想からのもので、国民にとってはほとんど利益はない。

三重大学副学長・児玉克哉氏が、「形骸化しつつある『ぶら下がり取材』~政治家と政治記者の緊張感あるやりとりが政治を活性化する」と題した記事の中で、ぶら下がり取材の弊害について議論している。

「政治家としては、失言探しの記者による命取りになるリスクを負うことになり、メディアからすれば、政治家側が情報をコントトロールし、情報が平均化し、生きた情報が少なくなるというデメリットを受けることになります」としたうえで、「そうした記者クラブ的な志向が日本のメディアをつまらなくさせたとも思います。ダイナミックなスクープ記事は、そうした『ぶら下がり取材』からは生まれません。小さな失言記事ばかりが紙面をにぎわします。それは政治の本質とは思えません」と指摘する。全く同感だ。

安倍首相がぶら下がりを拒否し、fbによる情報発信に切り替えたことについて、今のところ大手メディア各社は冷静に事実だけを伝えている(本日付朝日新聞デジタルなど)。しかしどのメディアも気付いているはずだが、この方針はメディアの力を大きく削ぐことになる可能性を秘めている。

というのも、何故メディアが「第4の権力」と呼ばれるほどの力を持ち得ているかといえば、それは国民の「知る権利」に貢献しているがゆえである。つまり、通常我々国民が入れないようなところへ行き、そして個人では収集不能な大量の情報を多くのソースから入手し、それを国民に提供する。それがメディアの存在を正当化し、その情報による読者・視聴者との繋がり、あるいは信頼関係が彼らの力の源泉である。

それが、日々直接首相の声を聞き、それを国民に届けるという(彼らにとって)重要な要素のひとつが完全に失われるのである。メディアの痛手は相当のものだと考えられる。特にテレビにとっては、ぶら下がりインタビューに対する首相の応答という「画」がなくなるのは、相当痛いはずだ。

その「損失」を回復するためにメディアに何ができるが。ここからは僕の予想の域になるが、まず想像されるのは、「fbのみでの情報発信は、政府側からの一方的なものであり、メディアからの質問によって国民からの疑問に答えるという、インタラクティブな議論が成立しなくなる」というような批判。

しかし予想されるこうした批判に対して安倍首相は、上記9日付のfbにおいて、「今迄テレビに於いては『総理と語る』という形でNHKと民放が交代で総理とのインタビューを放送し、新聞はグループインタビューという形式で数社ごとに総理とインタビューを行っていました。私はこの形式を改め、インタビューの希望がある社や番組ごとに日程を調整したいと考えております」とし、それらを封じるために先手を打っている。

おそらく、著者の「先輩」に当たる世耕弘成内閣官房副長官が主導して、こうした「安倍スタイル」のメディア対応を打ち出したのだと思われるが、非常に緻密であり、第1次安倍内閣時代にメディアにいいようにやられたことを踏まえ、精緻な思考のもと、メディア戦略が練られていると考えられる。

もちろん、ぶら下がり取材がメディアによる首相へのアプローチの全てではないので、それがなくなったからといって、メディアが全面的な「機能不全」に陥るようなことはない。しかし、今までは記者を通して(つまりマスコミの編集を経て)国民に伝えられていた首相の思想が、fbによって、そうした「バイアス」なしに直接国民に伝わるわけである。これは日本の政治を大きく変える可能性のある変革だと言える。

国民が直接首相の真意を知ることができ、加えて、その主張に対してfb上で意見を述べることができるとなると、これまで既存メディアが政治と国民との媒介者として存在していた意義は、ほとんどなくなることとなる。つまり首相にとっては、メディアに都合の良いところだけを「つまみ食い」され、本来の主張を曲げて伝えられるようなことがなくなり、メディアという、いわば「仲卸」をバイパスして、直接国民に自身の思想、主張を伝えられるようになるということである。

安倍首相のこうしたメディア対応の大きな変革を、仮に「安倍システム」と呼ばせていただくと、このシステムは既存メディアを「ぶっ壊す」装置だと言える。

つまり、今まではぶら下がりで首相の言葉を「独占的に」伝えてきたメディアの特権がなくなり、首相の考えはfbによって、メディアを介さずに直接国民に伝えられることとなる。そうなると、首相からの情報を得るということにおいては、一般国民もメディアも全く差がなくなる。

そうすると何が起こるかというと、ネットを使える人間が既に首相のfbで知っている情報を、メディアは、ネットを使えない人間のためにそのfbを参照して伝える、ということである。事実、安倍首相がぶらさがり取材を行わないという情報も、それを止めたうえでfbでの発信力を強めていくという情報も、既存大手メディアは安倍首相、および官邸のfb上でのコメントを引用する形で伝えている。これを見れば、既に政治におけるメディアの位置づけは大きく変わる兆候を示していると考えられる。

話しは変わるが、1933年から1945年まで合衆国大統領であったフランクリン・デラノ・ルーズベルト(FDR)は、天才的な「メディア遣い」であった。彼の時代の主要メディアはラジオだったのだが、彼は定期的にラジオに登場し、様々な事柄について国民に直接語りかけた。それは炉辺談話(Fireside Chats)と呼ばれ、当時合衆国大統領に会う機会などなかった国民は、ラジオから、あたかも隣人に語りかけるようなFDRの言葉に熱狂した。

安倍首相のメディア戦略については、以前の本ブログの記事「安倍総裁は日本のJFKか? ‐メディアを制する者が選挙を制す‐」において、当時のニューメディアであったテレビを最大限活用して合衆国大統領の座を射止めたJFKと、現在のニューメディアであるSNSを駆使して自民党総裁選を勝ち抜いた安倍氏の相似性を議論した。

JFK時代よりさらに遡るが、今回の安倍首相のfbでの情報発信宣言は、FDRの炉辺談話に似ているように思える。下らないメディアの「バイアス」を通さず、一国のリーダーが生の声でその政策、そしてその政策を決定するに至るまでの思想を語る。もし安倍首相がそのようにfbを活用することができれば、それは間違いなく現代日本における「Fireside Chats」となるだろう。

僕が安倍氏支持者だけにひいき目もあるのだろうが、ことメディア戦略に関して言えば、合衆国の最も偉大な大統領と考えられているFDR、そしてJFK、その両方の戦略を併せ持っている安倍内閣は史上最強であることは間違いない。

最後に、今回の「ぶら下がり廃止、fbでの情報発信」は、間違いなく安倍首相から既存メディアに対しての「宣戦布告」であると思う。前回、とことんメディアに苦しめられた安倍首相は、今回はSNSという「武器」を手に先手先手で対策を講じ、「リベンジ」する気満々である。

それは、ひとり安倍首相の考えのみならず、戦後日本人がメディアに翻弄されてきたことに対する国民による「リベンジ」でもある。

偏向し、かつ無能なメディアなど通さず、政治家と国民が直接大いに議論を闘わせればいい。現在危機的な状況におかれた日本においては、メディアのくだらない「思想」につきあっている暇はない。バカなメディアは放っておいて、国民と政治家とで新しい民主主義を築く時代が、安倍内閣によってようやく訪れたのだ!

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2013年1月 9日 (水)

どうしても朝鮮学校を無償化したい朝日・毎日 ‐いっそ「特アのロビーイスト」だと宣言すべし!‐

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(写真はJANJAN NEWSより)


昨年12月28日、下村博文文科相は、「朝鮮学校については、拉致問題に進展がないこと、朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)と密接な関係にあり、教育内容、人事、財政にその影響が及んでいることなどから、現時点では国民の理解が得られない」と記者会見で述べ、朝鮮学校に対しては、高校授業料無償化を適用しない方針を表明した(msn産経ニュース)。

反日教育を行い、無償化のための支援金(=税金)が流用される可能性が十分に予見されることを勘案すれば、極めて妥当な決定だろう。

読売新聞は12月30日付社説で、約2億円の「就学支援金が授業料以外に流用される恐れや、事実と異なる内容の教育が行われる懸念が払拭できない限り、国費投入に国民の理解は得られまい」と主張。

また、下村文科相が、2014年度以降、制度を見直し、対象に所得制限を設ける方針を明らかにしているとしたうえで、民主党による高校無償化の考え方を批判。「…『社会全体で子供を育てる』という理念を掲げた民主党政権の目玉政策の一つだった。だが、家計に余裕のある層まで一律に対象としたため、『ばらまき』との批判が根強かった」。

そして安倍内閣の方針については、「高校生は授業料以外にも学用品購入費などの負担が多い。所得制限によって無償化の対象を絞り込むことで財源を捻出し、低所得者層の支援に活用するという安倍政権の考え方は理解できる」と評価した。全くもってその通りだ。

産経新聞は12月28日付の記事で、民主党の朝鮮学校への無償化「適用ありき」の姿勢を批判。その中である文科省幹部の「法案審議の段階から、官邸から適用対象に入れるよう指示が来ていて、法案を通した後に、個別に適用を指定するという段取りだった」というコメントを紹介。

また、平成22年8月末、「教育内容は判断基準にしない」とする適用基準案を公表した非公開の専門家会議関係者の、「議論は形式的で適用を認める理屈を導き出すようだった」という意見を伝えた。

同時に産経は、東京基督教大学の西岡力教授の、「反日教育を続け、拉致問題を正しく教えない朝鮮学校への不適用は当然の判断」との指摘を掲載しているが、至極当然だと考えられる。

つまり民主党は、(理由はよく分からないが)朝鮮学校の高校無償化を前提としたうえで、専門家会議での議論をアリバイ作りとして、あたかも十分な議論が行われたと体裁のみを整え、最終的には朝鮮学校も無償化の対象としようとしていたということが明らかである(政治家という人種は、金か票、どちらかをもらえればいくらでも「転ぶ」ので、そのいずれか、あるいは両方が在日勢力から民主党に提供されていたのだということは想像に難くないだろう)。 

また根本的な問題として、そもそも民主党が唱えていた「社会で子供を育てる」という主張自体、理解不能だ。つまり、裕福ではない子供のいない世帯、あるいは独身者の税金を、授業料の支払いに何ら困ることなどない富裕層の子供の無償化の支援にも使うということには、全く正当性を感じない。

加えて、「教育内容は判断基準にしない」というのであれば、極端に言えば、反日どころか、国家転覆計画を教える高校にでも無償化支援をするということか。

これに関してはちょっとしたエピソードがある。僕が自身のツイッターで「『教育内容は判断基準にしない』って、どれだけ寝ぼけた連中なんでしょうね、民主党は。反日教育をするための学校に日本人の税金を使う。僕はこの言葉は嫌いなので、ネット上でも一度も使ったことはないのですが、ホント民主党は『売国奴』だったとよく分かりますね」とツイートした。

それに対して、僕がフォローしている高橋氏が、 「『教育内容は判断基準にしない』ってことはオウム真理教学校とか作ってサリンの効果的な撒き方とか教えていても無償化にするんでしょうかね」とリツイートされていた。極論ながら、民主党の基準はまさにそういうことである。

おそらく「普通」の日本人にとっては、朝鮮学校は高校授業料無償化の対象外とするという決定について、何ら違和感を持つことはないだろう。しかし、違和感を持つ勢力も当然存在する。いつものように、毎日・朝日の「左翼連合」である。

毎日新聞は12月30日の社説で、安倍内閣の決定に異を唱える。曰く、「…朝鮮学校に学ぶ生徒の大半は日本に生まれ育ち、将来も日本社会に生きる。教科学習も日本の高校に相当し、多くの大学は朝鮮学校卒業生に受験資格を認めてきた。高校のスポーツ競技でも交流は活発だ。生徒それぞれの学びの機会を経済的に支える、という制度の理念に、朝鮮学校の生徒を一律に除外するのはそぐわない」とのことだ。

朝鮮学校を、大学受験のために実質的に日本の高校に準ずべきものと認めてきたこと。あるいは、野球、サッカー、ラグビーなどの高校スポーツに朝鮮学校が参加することを許容してきたことと、彼らに日本人高校生と同様に授業料無償化の「特権」を与えるのかどうかは、全く別次元の問題である。

政府の施策は、あくまで「日本人の子供を社会として育てる」ということにあるわけで、大学受験が認められているとか、甲子園、国立、あるいは花園を目指す仲間に(例外的に)彼らを入れてきたから、当然彼らにも支援金を受ける権利があるとするのは、あまりに乱暴な議論だろう。

朝日新聞は、本日1月9日付の社説で、「朝鮮学校‐無償化で改善の回路を」と題して、安倍内閣の決定に異論を唱える。

「朝鮮学校も教育のあり方が疑念を招いてきた。北朝鮮指導者の肖像画を教室に掲げ、独裁体制を肯定するような授業をしているとすれば受け入れがたい」ものの、「…制度の対象は生徒個人であって、学校ではない。卒業後は日本の大学に進学する生徒も多い。日本社会の一員となる子どもたちだ。生徒たちの学びを保障し、かつ日本や国際社会の価値観をきちんと学んでもらう。両立の手立てを探りつづけるべきだ」と、日本国籍ではない彼らを無償化の対象とする「意義」を唱える。

一言、「ふざけるな」と言いたい。まず、「制度の対象は生徒個人であって、学校ではない」と、誰しもが「守るべき存在」と考える「子供」を盾に、自社の無理筋な主張を正当化するあざとさ。もちろん生徒に罪はないが、かといって、日本国民でもない人々を「生徒」だからというだけで税金負担によって教育する義務は、僕ら日本国民にはない。

また、上述のように、苦しいながらも税金を納めている人々がギリギリ許容できるのは、「日本国の子供たちの教育のため、大変だけど、我々も将来国に貢献してくれる子供たちのために痛みを分かち合おう」というところまでであって、日本国民ではなく、誤解を恐れず言えば、将来働きもせず、違法である外国人による生活保護を受けるようになる予備軍に費やすための税金の余裕など、日本国民は持ち合わせていない。

話しは全く変わるが、昨年ちょっとヒットした曲で、「back number」というバンドの『青い春』という曲がある。この曲の歌詞に、

まぁいいやが増えたのは 大人になったからじゃなく
きっと空気の中に変なものを
俺らが考え過ぎんのを よしとしない誰かさん達が
混ぜて垂れ流しているんだろう


という部分がある。


◇back number - 青い春



この曲は、TBSドラマ「高校入試」の主題歌であり、「青い春」(おそらくは「青春」の意味)というタイトルを考えれば、間違いなくこの時代の日本に苦しんでいる若者の思いを歌った曲だろう。

しかし、それと同時に僕には、戦後、「自虐史観」を植えつけられた世の中を何とか変えようと苦悩している日本人のことを歌っているようにも思える。

日教組による教育始め、様々な勢力によって「洗脳」されたその状態を、「俺らが考え過ぎんのをよしとしない誰かさん」である朝日・毎日が、その社説等によって必死に維持しようとして、詭弁に過ぎない無価値な記事などといった「変なもの」を、空気に混ぜて「垂れ流している」のではないかと。

本題に戻ると、朝日・毎日はいっそ、「我々は『特ア』のロビーイストである。日本国民の利益など関係ない。『特ア』第一なのだ。共感する人たちよ、さあ、我々と共に極右・安倍内閣を打倒しよう!」と宣言してくれた方が余程すっきりする。「不偏不党」を装って世論を特定の方向へと導くような手法は卑怯そのものだし、何より、ネットメディアが飛躍的進歩を遂げた現在、そんなものは多くの人に見透かされている。何十年も前の手法でプロパガンダを行う低レベルなメディアだと馬鹿にされていることに、彼らは気付いていないのだろうか。

朝鮮学校の無償化に関しては、それほどやりたいのであれば、朝日・毎日が在日に対する「支持者」としての寄付行為、あるいは自社のCSR活動として実施すればいいだろう(但し、この場合の「社会」は決して「日本人社会」ではないが)。それであれば、僕も含めて、納税者・有権者の誰も文句は言わないだろう。申し訳ないが、国益を考えないあなた方「左翼」が支援する勢力のために、僕ら国民の税金を使わせる気など一切ない。そのことをよく覚えておいてほしい。

Anyway, good luck Asahi and Mainichi!! Do what you want to do, and we'll see what's going on!!!


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2013年1月 5日 (土)

短編 「お薦めブログご紹介」 ‐古森義久氏のブログ「ステージ風発」に注目!‐

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産経新聞ワシントン駐在編集特別委員兼論説委員(長いなこの肩書き…)・古森義久氏のブログがかなり面白い。

古森氏は、毎日、産経の記者などとして、ジャーナリスト人生のほとんどを海外で過ごしている、日本のジャーナリズム界において最も世界情勢を「肌で知った」人物の一人である。

僕は「国際紛争報道」という分野、分かり易く言えば、世界で起こる紛争・戦争をメディアがどう報道しているのか、ということを研究したいと考え、企業に10年勤務した後、英語圏で、かつ当時先進国で唯一「紛争」を抱えていた、イギリスの北アイルランドに留学した。そのモチベーションは何だったのかについては、もしお話しできる機会があれば記事にしたいと考えている。

留学中、街を歩いていると、不穏な情報がある時は軍隊が鉄道駅周辺を警備していたり、書店で本を探していた時、「爆破予告がありましたので、すぐに外に出てください」というアナウンスがあったり、日本では絶対経験できない世界の状況を、まさに肌で感じることができた。

僕の修論のテーマは、「台湾・中国関係を日本メディアがどう報じてきたのか」。せっかく北アイルランドに留学したので、僕としては、是非、アジア人の目から見た北アイルランド紛争について論じたいと考えていた。しかし、担当教授から、「北アイルランドについては、既に多くの学者が議論し新鮮味がない。僕は、アジアについての君の議論を聞きたい」とアドバイスを受け、戦後、紛争とは関わりのない日本人から見て最も身近な「紛争」である、中台関係を議論することにした。

その際、古森氏の著作、とりわけ、「北京報道700日―ふしぎの国の新聞特派員」、「『日中友好』のまぼろし」、「日中再考」は非常に参考になった。そうした縁で、古森氏にはすごく親近感を抱いていたのだが、その後仕事の忙しさにかまけ、彼をフォローしてはいなかった。

そうした月日を経て、今改めて古森氏の主張を彼のブログで読むと、「この人の価値観は、やはり自分に近いものなのだな」と強く感じる。

個人的な話に行を費やしてしまい失礼した。本題に戻り、彼のブログが何故「面白い」のかをお伝えしたい。

氏はそのブログにおける1月3、4日の記事で、それぞれ、「外務省の元国際局長・孫崎享氏を国会に招こう 」、「尖閣を中国に献上したい孫崎享・外務省元国際情報局長 」と題して、元外務省国際情報局長・孫崎享氏の「媚中」を批判している。日本国の利益を最優先すべき外交官が、例え現在はその職を退いているとはいえ、これほど「利敵」な論理を展開することは、古森氏ならずとも、日本国民であれば誰しも批判したくなるだろう。

また「安倍晋三なんてこわくない?」という1月1日付の記事では、誰が安倍氏を恐れているのか、イコール誰が安倍氏の敵であるのかを見事に炙り出している。

古森氏は、現在も「一応」産経新聞に属しているとはいえ、ほとんど自由に議論することを許されたコラムニストと言える立場にある。外国では、保守、リベラルとも有名なコラムニストが存在し、それぞれが激しい議論を闘わせている。いわゆる「Op-ed (opposite the editorial page」と呼ばれる、新聞社の社説の反対に位置するページに、そのようなコラムニストの主張が掲載されている。

例えば、昨日1月4日の本ブログの記事「安倍首相を『右翼の民族主義者』と呼ぶNew York Times ‐朝日に洗脳されたTimesに日本を論じる資格なし‐」で批判した「リベラル」紙Timesが、中道保守・トーマス・フリードマン(Thomas Friedman)、さらには超保守・ウィリアム・クリストル(William Kristol)の主張を、「Op-ed」に定期的に掲載することは、紙面全体で独自の思想(親中韓)を読者に押し付けようとする朝日、毎日に比べると、そのフェアな紙面構成が際立つ(朝日、毎日をTimesと比べること自体、草野球選手を超一流メジャーリーガーと比べるに等しいことで申し訳ないが…)。

昨日の記事でも議論したように、Timesによる日本関連の記事は'shit'以外の何ものでもない。ただ、上述のような紙面全体においてバランスを取ろうとする姿勢は、およそ日本のメディアでは見られない「フェア」なスタイルであることは確かであり、それは称賛に値する。

うわっ、「短編」と書いておきながら全然短くなかったですね。常に冗長な議論をする、著者「Mich(ミッチ・僕のイングリッシュネームです)」をどうかご容赦ください。

P.S. 僕はメディア、ジャーナリズムが専門ですので、もし議論してもらいたいと思うテーマがありましたら、遠慮なく「コメント」欄からお知らせください。必ず、何らかのかたちで回答させていただきます。


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2013年1月 4日 (金)

安倍首相を「右翼の民族主義者」と呼ぶNew York Times ‐朝日に洗脳されたTimesに日本を論じる資格なし‐

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(写真はWikipediaより)


本日1月4日付msn産経ニュースは、「NYタイムズ、安倍首相を酷評 河野談話見直し『重大な過ち』『恥ずべき衝動』」と題し、The New York Times(以下Times)が3日付朝刊の社説で、産経新聞などが掲載した安倍首相のインタビューを引用し、同紙が首相を、「右翼の民族主義者」と決めつけ、「朝鮮などの女性を強姦、性奴隷にし、第2次世界大戦で侵略したことへの謝罪の見直しを示唆した」と非難したことを伝えた(Times原文参照)。

msn産経ニュースは、河野談話について、宮沢政権総辞職前日に閣議決定しないまま公表された経緯があり、第1次安倍政権は慰安婦問題について「政府が発見した資料の中には軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述は見あたらなかった」との答弁書を閣議決定したことに触れたうえで、 「インタビューにおける安倍首相の見解はこうした経緯を踏まえたものだが、ニューヨーク・タイムズ社説は物証を挙げないまま、強制性を前提に見直しの動きを批判している」とTimesの論調を批判的に伝えている。

Timesの同社説を読むと、日本について、「歴史を糊塗するのではなく、長期に亘って停滞した経済の改善に集中すべきだ」とまで「アドバイス」してくれている。全く余計なお世話である。

おそらくごく普通の日本人がこの記事を読むと、民主党より相当親米で、しかも集団的自衛権の解釈変更等によってアメリカ寄りのスタンスを取ることを示唆している安倍氏を、何故、アメリカの一流紙が、あたかも中韓のメディアの報道のように批判するのか疑問に思われることだろう。ただ専門家からすると、これはTimesの「いつもの」考え方である。

詳細を説明する前に、まずはTimesについて基本的なことを以下に記す。

Timesは、発行部数においては、The Wall Street Journal(WSJ)の211万部、USA TODAYの181万部に次ぐ、158万部で全米第3位(日経新聞参照)。WSJが経済中心、USA TODAYは大衆紙であることを考慮すれば、いわゆる「クオリティ・ペーパー」としては、The Washington Post(Post)を並ぶ、アメリカでもっとも影響力のある新聞であるということは間違いない。

個人的には、日本の新聞と英語圏の新聞しか知識はないが、その情報の質・量とも、おそらく世界一の新聞であると考えている(但し、アメリカ国内のニュースに限る)。

アメリカのジャーナリズム・スクールに通っていた頃、Timesの記者に取材し気持ちよく対応していただいた経験もあるし、当時のTimes編集幹部が同じスクール出身だったので、彼の講演を聞いてとても感動したことなどもあり、特にシンパシーを感じている新聞だ。もちろんアメリカでは毎日Timesを読んでいた。

加えて、僕が最も尊敬するジャーナリスト、デイビッド・ハルバースタム(David Halberstam)が若き頃、Timesの記者としてベトナム戦争報道でピューリッツァー賞を受賞したこともあり、同紙は、今でもジャーナリズム界の世界最高峰であると思っている(ハルバースタムは後に、彼がベトナムから送った記事の多くは、Times本社の編集サイドに握りつぶされたと述懐しているが…)。

そして、Timesの歴史に残る金字塔は、いわゆる「ペンタゴン・ペーパーズ報道」。ペンタゴン・ペーパーズとは、米国防総省のベトナム戦争に関する機密文書。これを入手したTimesは、1971年、時の政府の強い反対に抗して連載記事としてその内容を掲載した。当時副社長だった、同紙の伝説的記者ジェームス・レストン(James Reston)は、「タイムズは社屋を売りに出しても最後まで(政府と)戦う」と、会社が潰れることを厭わず、ジャーナリズムとしての意地を貫き通した。それは、「ウォーター・ゲート事件」におけるPostの報道と並び、アメリカジャーナリズムの黄金時代を築いた。

それほど僕が崇拝し、尊敬するTimesではあるが、こと日本に関する報道となると、それはもう「ガラクタ同然」である。人種的偏見や、一方的な歴史観に基づいた偏向報道を繰り返す。世界の一流紙が何故そのようなことになってしまうのか。

これを知れば皆さん納得されると思うが、Timesは日本においては朝日新聞と提携しており、東京支局を朝日新聞東京本社ビル内に設けている。つまり朝日に「洗脳」されているのだ。

世界のTimesともあろうものが、朝日ごときの影響を受けているとは信じがたいと思われる方も多いだろう。しかし、これは紛れもない事実であり、東京発のTimesの記事を日本人が読めば、必ず納得していただけると思う。

詳細は、このWikipediaページの「日本関連の記事」という部分が非常によく記述してくれていると思うが、簡単に説明させていただく。ノリミツ・オオニシ(Norimitsu Onishi)氏とニコラス・クリストフ(Nicholas Kristof)氏。この二人が記者・コラムニストとして、Timesの日本関連記事を徹底的に歪めてきた(ちなみに、クリストフ氏の妻は中国系アメリカ人)。

二人の代表的な「作品」は以下の通り。


オオニシ氏。

・2005年 中国の反日デモに関して、「日本は最近、高圧的な外交的態度を見せた。 韓国との葛藤に続き、中国との関係も悪化している。 アジアで孤立的状況を迎えている」「軍国主義的な過去史を美化する日本教科書問題は、国連常任理事国を目指す日本の未来にも影響を及ぼすだろう」と報道。

・2005年 自民党が長期に亘り政権を担当していることを批判し、「韓国や台湾は政権交代しているのにも関わらず、(日本は)中国や北朝鮮のような共産主義国と同様に50年以上政権交代していない一党支配」と細川政権の存在を無視した記事を掲載。

・2007年 当時首相であった安倍現首相を、「日本の戦時中の過去を軽く扱うことでのし上って来た国家主義者」と表現。


クリストフ氏。

・1995年 沖縄米兵少女暴行事件の直後、「日本女性が読む野蛮なコミック」と題して、「『レイプを称賛する』かのような、アメリカ人の感覚からするとエロティックというより病的な内容の女性向け漫画、レディースコミックを日本の女性の多くが読んでいる」と紹介。

・2010年 「1972年にアメリカが沖縄の施政権を日本に返還したため、尖閣諸島の問題で日本を助けるというばかげた立場をとるようになった。米国は核戦争の危険を冒すわけがなく、現実的に日米安全保障条約を発動する可能性はゼロだ」と主張。

・2011年 尖閣諸島の領有権に関して、「私の見解は、中国の領有権主張には揺るぎない歴史的根拠があるというものだ」と主張。



歴史的知識、国際社会に生きる人間としての識見に欠けた無能な記者はどうでもいいが、「世界の」Timesの記事が、韓国のタブロイドレベルの全国紙や、中国共産党に支配された新華社などと同程度なことに驚く方もおられるかもしれない。しかし、結局アメリカ人はアメリカにしか興味がないのだということが、ここにもよく表れているのだと思う。世界を全く知ろうとしないし、理解してもいない。ヨーロッパで暮らすとよく分かるが、どの国の人々も共通してアメリカ人をバカにしている。

僕は日本にフォーカスしてTimesの記事を批判しているが、このレベルでは、この新聞は他の国々の皆さんをも憤慨させているであろうことは想像に難くない。日本に関して言えば、おそらくTimesは、日本の「左翼」と欧米の「リベラル」が全く別物であることを理解せず、易々と朝日に洗脳されていると思わざるを得ない。

上述のmsn産経ニュースでは、米NSCの元上級アジア部長マイケル・グリーン(Michael Green)氏が、ニューヨーク・タイムズなどについて、「安倍氏を危険な右翼だと憎む朝日新聞や一部毎日新聞の見立てを輸入したものだ」との見解を紹介している。また以前Newsweekは、「Timesが日本関連の記事を書くときは、いつも好意的に書かないのに決まっている」と論評している。

また同紙は、東大名誉教授・上野千鶴子氏にも、「米国が捏造する日本」、「米国だけが世界だなんて狭すぎる」と厳しく批判されていることも付け加えておく。

最後に、こんなことを言うと低次元の議論になるので言葉にしたくないのだが…。Timesが日本の歴史認識について意見するのであれば、アメリカ大陸に上陸した彼らの祖先が、ネイティブ・アメリカンズにしたことに関し、Timesはどのような「認識」を持っているのか?

新大陸での生き残り方が分からない彼らの祖先に、ネイティブ・アメリカンズは親切にも、耕作方法などあらゆることを教えてくれた。そうした「恩人」を虐殺したり、サンクチュアリに押し込んだり、そしてサンクチュアリに原油があると分かれば、またネイディブ・アメリカンズを追い出し、別の場所に強制移住させる。

また、アメリカがかつて侵略したメキシコ、キューバ、フィリピン、あるいは今では自国の領土にしたハワイ、グアムについてはどうなのか?Timesの「認識」を聞きたいものである。

結論としては、朝日というプリズムを通してしか日本を見ることができないTimesの記事など、少なくとも日本に関しては全く読むに値しない。それを「裸の王様・Times」は全く理解していないし、これからも理解することはないだろう。

追記(1月5日):引用し忘れた記事を友人が指摘してくれましたので、以下ご参照ください。上述、マイケル・グリーン氏の主張が詳しく紹介されています。
【あめりかノート】「右傾化」批判の誤り ワシントン駐在編集特別委員・古森義久


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2013年1月 2日 (水)

「危機突破」のため急がば回れ ‐野党は米「財政の崖」回避に学び与党は丁寧な政権運営を‐

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写真は自民党ホームページより)


自民党が政権を奪還した2012年が終わり、「日本を取り戻す」ための2013年が始まった。

安倍晋三首相は年頭所感において、経済については、「金融政策、財政政策、成長戦略の三本柱でデフレ・円高を克服し、日本経済の再生を図ります」。外交・安全保障については、「失われた日米同盟の絆を回復・強化し、東アジアの平和と安定を確保します。そして、強い外交力を取り戻した上で各国との関係を改善し、領土・領空・領海を守り抜いてまいります」と表明。

教育、復興についても触れたうえで、「いずれの課題も重要かつ困難な課題ですが、我々は怯むことなく真正面から向き合い、スピード感をもって取り組んでまいりたいと思います」とし、早期に結果を出すとの意欲を見せた。

話は変わるが、アメリカでは、個人所得税を中心とする減税の期限切れと歳出の強制削減が年明けに重なり、経済全体の需要が崖から転げ落ちるように減り、景気に打撃を与える懸念、いわゆる「財政の崖」回避に向けた法案を、上院において89対8の圧倒的賛成多数で可決した。同法案の下院での早急な可決が条件とはなるが、当面の危機は回避される可能性が高まった(1月1日付ロイター)。

法案の概要は、まず、強制的な歳出削減開始を2カ月先送りする。そして所得税に関しては、中産階級への減税は継続する一方、年収40万ドル超の個人および同45万ドル超の世帯は増税となり、最高税率が現在の35%から39.6%に引き上げられる。この層については、キャピタルゲイン税や配当税も15%から20%に戻る。また、遺産税については、1000万ドル以上を対象とした税率を35%から40%に引き上げる。つまり共和党の支持者が多い富裕層が「痛み」を受け入れるという内容。

ここまで書いたところでThe Washington Postを確認したところ、上院を通過した法案を下院は無修正で可決。「財政の崖」による危機は取りあえず回避された。Postによると、下院でマジョリティを持つ共和党は、法案を下院で潰してしまい、ほぼ全ての国民が増税となれば、その責任は下院が負うことになると懸念。また、正月休み明けの株式市場でのネガティブな反応を考慮し、法案通過を選択したようだ。

アメリカにおいても、上院のマジョリティは民主党、下院は共和党と「ねじれ」状態にあるため、これまでも度々対立し、オバマ大統領(民主党)は政権運営に苦労してきた。

しかし今回の「財政の崖」問題は、アメリカ経済に壊滅的打撃を与える可能性があったため、多数派であり、強硬な「反オバマ」勢力である「ティーパーティー議員」を抱える下院共和党もさすがに折れざるを得ず、文字通りギリギリのタイミングで危機は回避された。

もっとも、今回の法案では多少の増税はあるものの、大幅な歳出削減や財政赤字の削減には繋がらないため、米議会における財政問題の火種は残ったままだと言えるが。

危機回避に主導的な役割を果たしたのは、ジョー・バイデン(Joe Biden)副大統領(民主党)とミッチ・マコーネル(Mitch McConnell)共和党上院院内総務(Postの記事参照)。

アメリカでは民主党、共和党それぞれの議員が法案ごとに投票態度を変えることがあるため、必ずしも「党議拘束」には縛られない。その裏では、ホワイトハウス側が、個々の議員に対して その議員にとって有利となる様々な裏取引を持ちかけたり、弱みを突いたりと、虚々実々の駆け引きが繰り広げられる。

このような政治文化は日本とは大きく異なるため、両国での議会の在り方を単純に比較はできないし、どちらが良い悪いとも言えない。ただ、今回の米議会の動きは、同様に「ねじれ」問題を抱える日本も参考にすべき点があると考える。

安倍首相の年頭所感からも読み取れるように、現在の日本において、特に経済、復興、外交・安全保障は待ったなしの状況にあることは誰もが理解しているだろう。そうした課題を迅速に前進させていくこと。それこそが、国民が政治に期待してしていることだという点についても異論はないだろう。それは与野党とも共通の認識であると思う。

しかし、今年の参議院選挙こそ本当の勝負と考える自民に対して、野党は相当厳しい対応に出ることは間違いない。政局的に考えれば、安易に安倍内閣に「得点」を与えられないという野党の考え方は当然だとも言える。

そうではあるが、現在の日本はあらゆる分野において、国家的危機にあることは間違いない。その点を考慮した議論を、読売新聞は1月1日付社説で展開している。

「政治の安定で国力を取り戻せ」と題した同社説では、「先の衆院選で自民、公明両党が法案の再議決が可能な定数の3分の2を超える議席を獲得した。政権担当経験がある自公両党による安定した政治、前に進める政治を、有権者が選択した結果にほかならない」としたうえで、民主党にもその責任を果たすよう求める。

「民主党は大敗して下野したが、衆院でなお第2党にある。参院では引き続き第1党を占めている。当面、自公民3党の連携を軸に、第3極を含めた部分連合を模索する必要がある」。

一方安倍首相に対しては、「衆院選で大勝した政権が、民意の揺り戻しによって、次の参院選で敗北するケースが続いている。首相に求められるのは、丁寧に合意形成を目指す、節度ある政権運営である」と、成果を焦って数の濫用による政権運営を行うことを諌めている。

個人的には、民主党に対する不信感はあるものの、読売の主張はまさに「正論」であり、こうした政治が行われることにより、日本の「危機」が回避されるであろうし、国民の「政治不信」も緩和されていくだろうと考える。

そのために安倍首相には、「スピード感を持つ」ことは重要ではあるが、功を焦るあまり3分の2超の数に頼り過ぎることなく、極力より多くの議員の賛同を得たうえで課題をクリアして行くことを望みたい。

また、民主党、及び第3極に対しては、反対すべきは反対するのは当然としても、政局に走り過ぎ、「与党の主張には何でも反対」といった古き悪しき野党として存在するのではなく、是々非々の態度で、日本の議会制民主主義の「進化」へ貢献してもらいたい。

理想論に過ぎるとのご批判もあろう。僕自身もその通りだと思う。

例えば、上述のアメリカ議会における「財政の崖」回避も、決して純粋に国民生活を危惧してのものではないだろう。個々の議員が自己の利益を考えたうえでの、妥協の産物であることはPostの記事からもよく分かる。

日本においても、政治家が最初に考えるのは選挙のことであり、自分の選挙にプラスになるための判断が第一であることは否定しない。

しかし、新しい年が始まったばかりの今くらいは、日本の民主主義の理想を語っても良いのではないのかとも思う。

2013年の日本がどのようになるのかはまだ分からない。しかし、少なくとも2012年の年末よりは、一人でも多くの方が幸せを実感できるような年になって欲しいと、心から願う。

P.S.今回の、アメリカにおける「財政の崖」回避が何故可能だったのかをごく単純に言えば、政治家達が有権者とマーケットを恐れたためと考えられる。日本では、政治家はマーケットを恐れはしても、有権者は舐められ続けてきた。今年は参議院選挙もあるので、「恐れられる有権者」になりましょう!


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