大手メディアの安倍内閣報道 Part 2 ‐ネット騒然・中日「実力発揮」そして「番組崩壊」TBS‐
(写真は12月27日付中日新聞)
本日は、昨日12月28日付本ブログの記事「大手メディアの安倍内閣報道 Part 1 ‐偏向毎日にバランス考慮の読売 首相は余裕のリアクション‐」の続編。
ネットユーザーの方にとっては、既に旧聞に属する話だが、やはりこれに言及せずにおくことはできない。第2次安倍内閣発足後の「反安倍」報道の中で、「断トツ」は中日新聞が12月27日に「安倍内閣 名付けるなら…」と題して掲載した「特報」だろう。上記写真はその画像。
著名・無名を含めた10名が安倍内閣に「命名」しているのだが、10名とも反安倍のスタンスで「名付け親」となり、コメントも安倍批判全開。以下、誰がどのような命名を行ったのかを列挙しておく。
・高村薫氏「そつなくまとめてみました内閣」
・松本哉氏「まぐれ敗者復活内閣」、「期待度ゼロ内閣」
・椎名千恵子氏「福島圧殺内閣」
・金子勝氏「逆戻り内閣」
・太田昌秀氏「改憲内閣」
・北原みのり氏「ネトウヨ内閣」
・宮崎学氏「国防軍オタク内閣」
・森田実氏「極右はしゃぎすぎ内閣」
・辛淑玉氏「厚化粧内閣」
・国分功一郎氏「学力低下内閣」
念のため言っておくが、これは「2ちゃんねる」への書き込みではなく、間違いなく中日に掲載された文言だ…。
僕も含めて、名古屋圏以外の方々にはあまり馴染みがない新聞なので、以下、中日新聞の概要。
戦時統合により新愛知と名古屋新聞が統合して創刊。名古屋圏では圧倒的なシェアを誇っており2010年12月現在、中日新聞単独部数は270万部(朝刊)だが、中日新聞東京本社が発行する東京新聞などを併せれば335万部(朝刊)に達し、全国第4位の部数を誇る(Wikipediaより)。
いわゆる全国紙と呼ばれのが、読売、朝日、毎日、日経、産経各紙。各府県でのみ発行されているのが県紙。例えば、僕が今住んでいる新潟県においては、新潟日報が県紙に当たる。それらに対して、県紙よりも規模は大きいけれど、全国紙のようには日本中を網羅していない新聞をブロック紙と呼び、中日はここにカテゴライズされる(他には、北海道新聞、西日本新聞、河北新報、中国新聞がブロック紙とされる)。
その全国第4位の発行部数を誇る中日が、これほどあからさまな反安倍・反自民の記事を掲載するとは信じがたい。少なくとも僕は、今までの人生で、全国紙はもちろん地方紙(ブロック紙と県紙)がこのような報じ方をするのを見たことがない。
「特報」は中日の記者が書いたものではなく、「辛口有識者」によるものであることは確かだ。しかし編集しているのは中日自身。上記の写真で明らかなように、構成もタブロイド的であり、社名が掲載されていなければ、下手をすると「東スポ」の記事かと見紛うほどだ(内容も同レベルであるし)。
昨日も書いたが、「識者」の定義は、「物事に対して正しい判断をくだす力のある人。学識・見識のある人」。それを一般人まで「有識者」と呼んでしまうとは、ものすごい新聞だ。昨日の記事では、毎日を中心に批判させていただいたが、中日新聞の前では、その毎日の偏向すら霞んでしまう。中日はタブロイドという位置づけで接するべきだろう。
この中日新聞の報道については、ネットを中心に批判が噴出。「最低すぎる」「便所の落書きレベルだ」と酷評され、中日新聞名古屋本社には27日だけで100本近くの電話が殺到し、担当者は頭の下げっぱなしだったとのこと(J-CASTニュース参照)。
さて、中日のあまりのインパクトで地味な話になってしまうが、TBSの「NEWS23X」がちょっと面白かったのでそれに触れておく。
「ニッポンの宿題」と題して、田原総一朗氏、水道橋博士氏、開沼博氏をゲストに招いて、安倍内閣などについて議論が交わされた(概要はgooテレビ番組参照)。制作サイドの意図としては、安倍内閣の原発政策を中心に、田原氏から強烈な批判を引き出したいということだったのだろう。反原発の開沼博氏を議論に加えていることからも、それは明らかだ。
期待通り田原氏は、安倍内閣をタカ派であることを隠した「角かくし内閣」と命名。番組は制作サイドの意図どおり進むかと思われた。しかし、残念ながらジャーナリズム界の「暴走老人」田原氏は、文字通り暴走し、番組をぶっ壊した。
総選挙投票前日、安倍首相が秋葉原で街頭演説を行った際、多数の日の丸が振られていたことについて、「やらせかもしれない」と発言したところまでは良かった。しかし、番組が街の声として、「強い日本」を主張する若者のみ数人を紹介したことに触れ、「そのような主張をする人の声だけを流しているのかもしれない」と番組批判。スタジオは白けた空気に包まれた。
全体的には、原発、経済などについて持論をまくし立てる田原氏を、膳場貴子キャスターとコメンテーターの播磨卓士氏が遮ったり、開沼氏に話を振ったりして何とか形を整えようとしたが、目的であった安倍氏批判もそれ以外の話題もすべて中途半端。あえなく番組は崩壊。田原氏起用は完全に裏目に出た。
また、議論と並行して、番組へのツイートを随時流していたのだが、僕が見た限りでは政治に対して批判的であったり、シニカルであったりするものが多く、発足したばかりの政権に冷や水を浴びせようという意図が見え見えだった。
率直に言わせてもらえば、TBS「ごとき」が田原氏を思い通りにしようとしたこと自体が間違いである。編集幹部は膳場氏、播磨氏にそんな力量があると考えていたのだろうか。少なくともTBSには、田原氏を抑えられるようなキャスターなりレギュラーコメンテーターは存在しない。そんなことは素人が考えても当たり前だろう。ひょっとして、田原氏の暴走、そしてそれによる凍りついたような空気。そういうことまで含めて「ガチ」の議論を見せたかったのだとすれば、それは大したものだ(そんなことは絶対ないと思うが…)。
2回に亘って、第2次安倍内閣発足を受けてのメディアによる主な報道を議論してきたが、決してメディアが政治を批判すること自体が悪だと言いたいわけではない。
元共同通信編集主幹・原寿雄氏はその著書『ジャーナリズムの思想』の中で、「およそ公共情報の分野では、事実の報道も論評も、現実に対する批判性がなければジャーナリズムとしての機能を果たしえない」と述べている。司法、立法、行政に次ぐ第4の権力としてのメディアには、権力へのチェック機能を果たすことが期待されているため、政権の過ちを糾弾することは重要なミッションのひとつであることは間違いない。よって大いに批判すればいい。
ただ問題は、その批判が建設的なものなのかどうか、あるいは「国益」(「国民益」と言い換えた方がいいかもしれないが)に適っているのかどうかという点である。昨日、今日の本ブログの記事で批判させていただいた報道は、その点においてジャーナリズムの役割を果たしているとは思えない。
「識者」の言葉を借りた批判のための批判。代替案を示す能力もないくせに、あれはダメこれもダメとダメ出しに終始する無責任さ。そして何より、国民対して民主主義成熟を促すための議論を提供するのではなく、自社が支持する勢力と結びつき、我々を「洗脳」しようとする愚かしさ。国民の「政治不信」を声高に論じるのであれば、「メディア不信」についても同様に論ぜよ。
米国の「クオリティ・ペーパー」と呼ばれる新聞では、自社で不祥事があった場合には、徹底的に開かれた調査を行い、紙面で堂々と自己批判を行う。それこそが信頼されるに足るメディアの在り方ではないのか。一方的にあらゆるものを批判するにも関わらず、自分には決定的に甘い日本のメディア。ネットメディアが劇的に躍進を遂げている今(本ブログ「既存メディアからネットメディアへ ‐余録・安倍総裁人気の源泉ネットメディアの驚異的な「政治的」進歩‐」参照)、既存メディアが本気で自己改革に取り組まなければ、少なくとも報道機関としては、完全に国民に見放されるだろう。
最後に、政治への向き合い方として印象に残った、三重大学副学長・児玉克哉氏の言葉を紹介させていただく。「リスクはあります。不安はあります。しかし、だからといって否定的な意識で国民がいれば、誰が首相になっても、どこが政権をとっても再生はありません。民主党政権誕生時のように、私は新政権を支持します、期待します。この期待を裏切らないでほしい、という祈るような気持ちを持って」。
これこそが、メディアが国民に訴えるメッセージのベースとすべき思想なのではないだろうか。それこそシニカルな言い方をすれば、そんな主張は「百年河清を俟つ」ナイーブなものであるのかもしれないが…。
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