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2012年10月22日 (月)

総理の「専権事項」衆議院解散‐歴代内閣に見る「伝家の宝刀」‐

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野田首相の「近いうち解散」発言による与野党対立は、未だ解決の糸口を見いだせずにいる。今日(10月22日)の民放の番組で、自民党石破幹事長は野田首相の姿勢を批判した。

石破氏曰く、本来は民主党の公約に反する消費税増税以前に国民にその信を問うのが筋であったところを、野田首相の「政治生命を賭ける」との発言があり、増税法案成立後、「近いうちに」解散するとの約束があったため、自公とも曲げて法案に賛成した。ところがその後首相は言を左右し、今では来年度の予算編成まで示唆し始めている。

来年の夏には衆議院議員の任期が来て、内閣が変わる可能性があるわけだから、そのような状況の中で、現内閣による来年度予算編成は許されない。まずは国民にどの政党に予算編成を任せるのか信を問うべきだと、石破氏は怒りを露わにした。

解散を巡る攻防の歴史は、そのまま政党政治の歴史といえるほど、それは生き残りをかけた政党間、時には政党内での権力闘争だ。現在の攻防はしばらく先が見通せそうにないので、今日は、戦後政治史上の特筆すべき、内閣総理大臣による解散劇を振り返ってみたい。以下敬称略。

吉田茂 第45・48・49・50・51代内閣総理大臣
・抜き打ち解散
1951年に鳩山一郎の公職追放が解除されると、三木武吉、河野一郎ら鳩山派議員が吉田首相の退陣を要求。これには1946年、首班指名直前に鳩山が公職を追放されたため、その代りに吉田が自由党総裁を引き受けたという経緯がある。三木たちからすれば、鳩山が戻ってきた以上、鳩山が総裁に返り咲くべきという考えで、これにより政局は混乱した。そこで吉田は、佐藤栄作、池田勇人ら側近のみと相談して解散を決めた。そして自分たちは密かに選挙準備を進め、準備の整わない鳩山派に打撃を与えようとの目算だった。1952年8月28日に不意を衝いて解散を断行。総選挙の結果は、吉田派は199議席、鳩山派は35議席となり、鳩山に打撃を与える目的は達したものの、466議席中234議席しか奪えず、自由党としては大きく議席を減らした。

・バカヤロー解散
1953年の衆議院予算委員会で、右派社会党の西村栄一との質疑応答中、吉田が西村に対して「バカヤロー」と言ったことがきっかけとなっての解散であったためこう呼ばれた。実際は、吉田が「バカヤロー」と怒鳴りつけたわけではなく、席に戻り小さな声でつぶやいただけなのだが、その声がマイクに拾われて、それを聞いた西村が怒り始め問題となった。その後、自由党を離党した鳩山派が内閣不信任案に賛成し可決。この時の総選挙で自由党は大敗し少数与党に転落。これが戦後日本の基礎を築いたとも言える、吉田時代の「終わりの始まり」となった。

田中角栄 第64・65代内閣総理大臣
・日中解散
1972年9月、田中首相は中華人民共和国を訪問し毛沢東国家主席、周恩来首相と会談。9月29日、日中両国の共同声明により日中の国交が正常化。11月に田中は衆議院を解散した。この選挙で自民党は284議席と安定多数を確保したものの、議席を16減らした。特筆すべきは日本共産党の躍進。解散前の議席に25上乗せし39議席を獲得。日中国交正常化が共産党の後押しをしたと考えられる。この時期、日本のメディアには右から左まで、異常と言えるほど中国称賛の記事が溢れていた。このメディアの状況を、僕はある論文において、「 Pro-China Syndrome」と呼んだ。当時の中国が文化大革命の嵐の中にあったことが分かるのは、また後の話である。

大平正芳 第68・69代内閣総理大臣
・ハプニング解散
1979年10月7日の総選挙において、大平首相自身の増税発言の影響もあり、自民党は過半数を割りんだ。大平の責任を問う福田赳夫を中心とする反主流派は大平退陣を要求したが、大平は断固拒否。そこから、田中・大平派対福田・中曽根・三木派そして中川グループによる党内抗争、いわゆる「四十日抗争」が勃発し自民党内は分裂状態に。総理・総裁分離案が出されるなど混乱を極めた結果、11月6日の首班指名選挙において、首相候補として自民党から大平、福田両氏が立つという前代未聞の事態に。結局決選投票によりようやく第2次大平内閣が誕生したが、党内に大きな禍根を残した。

翌1980年5月16日、社会党の飛鳥田一雄委員長は、浜田幸一衆議院議員のラスベガスカジノ疑惑などの自民党のスキャンダルを理由として衆議院に大平内閣不信任決議案を提出した。不信任案提出は野党による「恒例行事」のようなものであり、飛鳥田と公明党の竹入義勝委員長は同意していたが、民社党の春日一幸顧問などは、「自民党内の反主流派の動向が掴めないため、不信任案を提出することは危険だ」と指摘していた。結局不信任案は提出されることになり、福田・三木派・中川グル-プなどの議員が本会議を欠席したため可決されてしまった。提出した野党も、本会議を欠席した反主流派も全く予期していなかったにも関わらず、結果として衆議院が解散されることに。総選挙は6月22日の参院選と同時に行われ、史上初の衆参同日選挙が行われることとなった。

自民党は当初分裂選挙の様相を呈していたが、選挙中の6月12日に大平が急死し、それを受けて一転して団結し「弔い合戦」となり、結果的に22日の投票で自民党は衆参両院で大勝利を収めることとなった。野党の判断、自民党反主流派の判断、そして大平首相の急死。全てにおいて、まさに「ハプニング」の連続であった。

中曽根康弘 第71・72・73代内閣総理大臣
・死んだふり解散
1985年7月17日、最高裁は衆議院の一票の格差に対して違憲判決を出しており、これが衆参同日選を目論んでいた中曽根首相の解散総選挙の障害となっていた。政府はその是正のための公職選挙法改正案を提出。1986年5月22日に参議院本会議で可決・成立して問題は解決した。しかし、同日選に反対する野党との妥協により、改正法には新定数に関する30日の「周知期間」が設けられたこと、後藤田正晴官房長官などが「この法改正で首相の解散権は制限される」という発言を行っていたことなどのため、同日選はないと思われていた。

ところが中曽根内閣は、突然臨時国会を6月2日に招集し、本会議を開かずに議長応接室に各会派の代表を集め、坂田道太衆議院議長が解散詔書を朗読することにより衆議院解散を断行。史上2度目の衆参同日選挙となり自民党は圧勝し、任期満了間近だった中曽根ではあったが、党総裁の任期を1年延長する異例の党則の改正が行われ権力維持に成功。後に中曽根が「定数是正の周知期間があるから解散は無理だと思わせた。死んだふりをした」と述べたことから「死んだふり解散」という名が定着した。

小泉 純一郎 第87・88・89代内閣総理大臣
・郵政解散
これは皆さんの記憶に新しいと思う。2005年8月8日、参議院本会議で郵政民営化関連法案が否決された。持論の郵政民営化を否定された小泉首相は即日衆議院を解散し、直後の記者会見で、「今回の解散は『郵政解散』だ。賛成してくれるのか反対するのか、はっきり国民に問いたい」と述べ、自民・公明の両党の公認候補が過半数を獲得できなかったら退陣すると明言した。この選挙で最も異例であったのは、小泉は同法案に反対した議員を公認せず、その選挙区に「刺客」を送り込んだことだった。結果は、自民党296議席、公明党31議席で与党が327議席を獲得するという圧勝であった。郵政民営化の是非ついては議論が分かれるところではあったが、自身の信ずるところに真っ直ぐ走る小泉の姿に有権者は共感したのだろう。歯切れの良さでは歴史に残る宰相だった。

以上、戦後のユニークな総理によるユニークな解散、あるいは思いがけなく解散に至ってしまったという事例を紹介させていただいた。これを見ると、「かつて政治は面白かった」と無責任に思ってしまう。然るに現状はどうか。

衆議院の解散は、内閣総理大臣の専権事項であり、永田町では、「総理は解散については嘘をついてもいい」というのが常識ではある。しかしながら、10月20日付のmsn産経ニュースによれば、首相は、8月の谷垣前自民党総裁との会談の席上、「来年の予算編成をしない」と伝えたとされる。思うに嘘が許されるとしても、それにも限度があるだろう。与党民主党議員すら反対した増税法案を成立させることに協力し、ある意味それによって総裁の座を失った谷垣氏との約束を果たさないとすれば、野田首相の人間性を疑わざるを得ない。

増税しないという公約を破り、低支持率にあえぐ、つまり国民に信頼されていない現政権が来年度予算を編成することについては、僕も石破氏同様絶対反対だ。自民党としては異論はあるだろうが、特例公債法案、定数削減法案を速やかに成立させ、解散総選挙への道筋をつけるべきだと考える。それでも野田首相がその座に居座ろうとするのであれば、その時は国民が味方をしてくれるはずだ。国民も馬鹿ではない。

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